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2008.07.22
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カテゴリ:哲学・思想
このたびの考察は、よたよたあひるさんが7月11日に書かれたブログ記事『関係性への依存「議論」と「おしゃべり」その3』(およびそれに先立つ「その1」 「その2」)についての批判的再検討を目指したものです。

 なお、この再検討を進めるに際しては、竹内芳郎著『増補 言語・その解体と創造』(筑摩書房)および『文化の理論のために』(岩波書店)で展開された「言語論」「コミュニケーション論」に負うところが大きかった、ということを付記しておきます。
 
 私自身は、彼女によって提起された「言語論」の妥当性に主要な関心を持っているのですが、なにぶんいまだに「論争」が続いている問題を含んでいますので、さしあたって私自身の基本的な立場(「再確認」した立場)を明らかにしておきたいと思います。

 わたしは上記ブログ記事でよたよたあひるさんが示された仮説の実践的有効性(例えば日常のコミュニケーションにおける留意点が見えてくる等)を一定認めつつも、その仮説からただちに「伝わる言葉」を語るために・・・その2 で示されたような結論を導くことには無理がある、と考えます。

 よたよたあひるさんが このたびの一件(「“しょう”のブログ 6月28日の記事のリンク をご参照ください)から「一般的な教訓を引き出そうとした」という点について疑っているわけではありませんが、その教訓の力点は前回述べたように「“言葉”をブログ上で発信する場合の留意点、そしてそれが“批判”を受けた場合の留意点」におくべきであろうという立場をとるものです。

 さて、実は彼女の示した「言語理論(仮説)」は、以前私が愛読していた竹内芳郎著『言語・その解体と創造』で展開されていた理論とかなり似かよったものでした。

 私がもっとも尊敬している現代の思想家である竹内芳郎は「書くことにいったいどんな意味があるのか」という真剣な問いを発しつつ上記の書を著わしたのですが、氏は「言語」を(概略)以下のように分類します。

1、発話場や関係性への依存度が高い第一次言語・・・典型的なものが日常言語(日常の「おしゃべり言葉」)
 これは、発話場の状況や関係性によって「解釈」される言語(状況や発話者の個性を読み取ることによって適切に「解釈」される)
2、発話場や関係性への依存度が低い(独立した)第二次言語・・・ア、論理言語(論説や哲学書などに用いられる)、イ、文学言語(小説、詩歌などに〃)
論理言語・・・言語の「明示性」(「明確に“対象”や “意味”を指し示す」という働き)を生かした言語
文学言語・・・言語の「含意性」(言葉そのものが発散するイメージや音調・リズムが創り出すイメージ)を生かした言語

Q 第二次言語の意義はなにか?
A 日常言語では表現しきれない“沈黙”(=「人間の真実」や「社会の真実」)を表現すること

 以上、私流の要約なので不充分ではありますが、『言語・その解体と創造』における言語論の概略です。

 実は、私が書いた前回のブログ記事も上記の理論をふまえたもので、そこから発話場や関係性への依存度が高い『おしゃべり言葉』の典型は『ブログ上の言葉』よりも『よく知った人間同士の日常のやりとり』ではないか、と述べたのです。

 そうすると、よたよたあひるさんの「言語理論(仮説)」は日常のコミュニケーションや学校教育・家庭教育の具体的な場面でこそ多くの示唆を与えるものだ、と言えるのではないでしょうか。私はそのように受け止めましたし、kurazohさんが「感銘を受けた」といわれるのも「日常の教育実践(子どもや保護者とのやりとり)」を想起されたからではないか、と思われるのです。

 そもそも彼女の発想の出発点が「中学生たちの交流の場で、個人情報についてちょっと不用意なところがあったので、おせっかいに介入してかえって混乱させてしまった」という体験だったというのも、決して偶然ではないと思われます。それはまさに日常のコミュニケーションの場(発話場)における「教訓」だったのでしょう。

 しかしながら、ブログ上の言葉においても同じことが言えるでしょうか。もともと批判の対象となった“すずめさん”のブログ記事は「典型的なおしゃべり言葉の極」にあると言えるのでしょうか? 実は、「よたよた仮説」として示されたグラフの「グレーゾーン」に当たるのではないか、と私は判断いたします。

 竹内芳郎によれば発話行為(広義の「言語」を創造する行為)によって命題も発生します。(『文化の理論のために』)
 命題と言えば「三角形とは三つの辺を持つ図形である」といった数学のそれを思い起こす人も多いと思いますが、例えば「人物Aは卑劣漢である」、「アル・ゴアは偉大な人物だ(ペテン師だ)」といった状況判断を伴うものも含みます。

 そうすると、 問題のブログ記事の結論部分にあった「○○することは保護者の責任だ」というのも一つの命題であると判断できるわけですが、こと命題となればその「真偽」や「妥当性」が問題になってくるわけです。

 典型的な日常言語(とりとめのない「おしゃべり言葉」)は「命題」を発生させない場合が多いのですが、「問題となった記事」は明らかに一つの命題として提起されており、それに対して賛成・反対の意見が述べられるのは当然だと考えられます。(この命題が不特定多数に向けて発信されている場合はなおさらでしょう。)

 よたよたあひるさんは、 「記事に書かれた内容そのもの」だけでなく、「記事を書いた人の立場を考えた上での発言が持つ意味」というメタ・メッセージに対する批判が一種の「人格攻撃」として受け取られた、という指摘をされています。

 しかし、そもそも 「命題」に対する批判というのは本質的にそのような「誰がどのような状況で発信したのか」を含む「総合的な批判」となるのではないでしょうか。 例えば「人物Aは卑劣漢である」という命題も、人物Aが誰であるか、Aのどのような状況における言動を評価するか、ということが当然問題になるわけです。

 また、「三角形とは三つの辺を持つ図形である」という命題にしても、それが「数学の授業中」ではなく「駅のホーム」などで叫ばれれば「とんでもない(妥当でない)」と判断されますよね。従って発信した言説に対する批判が「記事を書いた人の立場を考えた上での発言が持つ意味」や「ある状況における特定の立場の人が発する言説」に対する批判となるのは当然だと考えられるのです。

 よたよたあひるさんは「相手に届かなければ意味がない」ということを述べておられますが、そうとも言い切れないところがあります。

 『文化の理論のために』の中では、言葉を発することを通して、実現される行為(行為の意味)の重要性が強調されていますが、問題のブログ記事に対する「批判の言葉」を通して実現された(行為の)意味は、二重であると考えられるのです。それは、第一に「批判することで容認できないという立場を明らかにすること」であり、第二に「相手にわかってもらう(通じる言葉を発する)こと」であります。

 私は、まずろさんのコメント欄である保護者から受けた指摘(=「本人に理解し反省してもらうのが一番いいが『悪いことは悪い』といってもらうことも大切だ」)がかなり印象に残っています。

 そのような観点からすると、多少「厳しい口調・表現」になったとはいえ、書き込まれた批判が無意味だったとは言えないでしょう。確かにいちろうさんも言われるように厳しい口調・表現による「正論」に反発する人は数十人に一人(あるいはそれ以上)いるかもしれません。

 しかし、子どもを持つ保護者十人に聞けば九人の人は「批判は当然」と判断されるのではないでしょうか。最初の段階で本人が批判を受け止められなかったのも、コメントを最初に書き込んだ人への先入観や「自分が属する団体(日教組)はとかく攻撃の的になるのだ」といった先入観が背景にあったと考えられます。

 とすれば少なくとも「この事例」に関して「おしゃべり言葉」と「議論の言葉」とのすれ違い、という枠組みで説明・一般化するのは妥当でないと考えられるのです。

 確かに、「問題となった元の記事」は典型的な「議論の言葉」というより充分に練れていないという点では「おしゃべりの言葉」のゾーンに入るか接近しているとは言えるでしょう。しかし、そのような言葉で「一種の命題」を発信する場合にはなおさら不特定多数に公開する場合の留意点、そしてそれが「批判」を受けた場合の留意点をこそ意識する必要があると考えます。

 よたよたあひるさんは「公平な判定(ジャッジ)」を意図したものではないし、批判した側とされた側のいずれかに責任を負わせることを意図したものではない、と言われます。しかし、その出発点において彼女なりの「一つの判断(ジャッジ)」がすべり込んでいると感じるのは私だけでないでしょう。

 すなわちそれは、最初の時点で「すれ違い」ないし「誤読」があったのではないかという判断であり、そのために「感情的な議論」になってしまったのではないか、という判断です。確かに当初の「正論」による「批判」に対して反発があったことは事実でしょうが、厳しい(難しい)現実から出発して何とか「届く言葉」を発信していこうという姿勢・実践は特に「まずろさん」の記事の中に顕著に見られるように思います。

 よたよたあひるさんも含めてさまざまな人が「ブログ上での意見発信・意見交換」をする中で、少なくとも「当初問題となった記事」の妥当性については本人も含めて「合意」が成立していった、と考えていいのではないでしょうか。

 以上、このたびの記事においては、「よたよたあひる言語論」の批判的検討が中心になりましたが、なにより「適切さ」こそが問題になる日常のコミュニケーションや学校教育・家庭教育の実践においては多くの示唆を与えるものであると受け止めています。いつになるか自信はないのですが、そのテーマについても何とかまとめてみたいと考えています。

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Last updated  2019.03.25 23:21:43
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