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国家と文明(市場原理主義と社会主義)

2010.07.10
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 Mr. Hot Cakeさんのブログのコメント欄で私は「今の労働分配率を変えていくためにも(「同一労働・同一賃金」に近づけていくためにも)労働運動の立て直しがポイントになるでしょう」、と述べました。

 それに対するご意見=〔( )内の「同一労働・同一賃金」を実現するためのハードルはかなり高い、ましてや「労働運動が社会性を回復すること」だけでは無理であり制度改革が必要である」〕という趣旨のご意見については異存ありません。

 ただ、上記原則(「同一労働・同一賃金」)はグローバルスタンダードとして目指すべきものであると同時に、あくまで「人間と資本増殖の主客転倒」を乗り越えるための手段であり規制である、と私は考えています。

 現在の日本の場合、それ以前に「外国人研修生」や「派遣労働者」を乱用し、個々人の生存権さえも踏みにじる「どん底への競争」を繰り広げている実態(それらを背景に労働分配率がどんどん悪化してきた実態)を正面から問題にしていくことが緊急の課題だと思うのです。

 そう考えると、早い段階で実現すべき実践課題は「労働者派遣法」の抜本改正や「外国人研修制度」に対する規制ということでしょう。その場合、既成の労働団体がそのような労働者をめぐる問題を運動の中にきちんと位置づけていくこと(「労働運動が社会性を回復していくこと」)は極めて重要だと考えるものです。

 とはいえ、将来にわたって「所得の手厚い再分配」を実現していくためには、「同一労働・同一賃金」を展望していくことは確かに大切であり、Mr. Hot Cakeさんの提起された問題にしっかり向き合っていく必要がありますね。
 
>さて、同一労働・同一賃金を実現する方法は2つしかないと思われます。
 北欧型のように産別労組にすれば、企業規模にかかわらず各企業は同一労働に対し同一賃金を支払わなければならないのですから、収益率の低い(中小)民間企業は当然に採算が悪化して潰れていき、収益率の高い企業だけが生き残ることでしょう。(・・・)

>これは労働弱者切り捨てではなく、それだけの賃金を払えない前途有望でない弱小企業を切り捨てて、強い企業を育成していくことを意味しています。北欧諸国はこの点にドライですね。

 上記は「同一労働・同一賃金」が実現された場合、危惧される点についてのご指摘ですが、日本においては北欧諸国以上に「採算の良くない弱小企業」を切り捨て、倒産させてきたのではないか、そのような現実がすでに大きく進んできたのではないか、と私は考えています。

 拙ブログで以前、NHKの「ふる里発」生産激減 自動車不況 という番組を取り上げたことがありますが、一部抜粋します。
 
 「規模が小さい会社は大変な苦境に追い込まれている。ある社長は自分の貯金を取り崩して社員の賃金を払っているという。しかし、それにしてもなぜそれほど急激に追い込まれてしまうのか。(・・・)確かに自動車の生産はここ数年(リーマンショック以前)増え続けてきた。しかし、国際競争が激しくなる中で大手メーカーは下請けに対して厳しいコスト削減を要求してきた。そのため生産の拡大に見合った利益をあげることができなかった。

 ここから見えてくるのは、世界同時不況以前の好況期に大企業が「使い捨て可能な低賃金の非正規労働者」を大量に使い、「下請けに対する厳しい買い叩き(いわゆる“下請けいじめ”)」を行いつつ空前の内部留保を蓄えていった、という図式です。

 つまり、現在の「下請けいじめ」の構造をそのままにして「同一労働・同一賃金」を実現しようものなら、一部ではなく半分以上の中小企業が倒産に追いやられるのではないか、と考えられるのです。
 このような現実をふまえるならば、「今の日本が弱小企業保護を図る」ことは必要であると考えます

 もっとも、OPECが国際石油資本(オイルメジャー)に対して結束して原油価格を引き上げたように、多くの中小企業(及び労組)が結束して大企業に対して価格引き上げを実現していくことができればいいのでしょうが、それが現実に困難であるとすれば、「下請けいじめを有効に規制できるような制度改革(この必要性を主張する政党もありますが・・・)」やおっしゃるような(以下のような)制度改革が必要であると私も考えます

>この(中小企業の)労働者に大企業なみの賃金を払わせようとするなら助成金を企業に出すか、または所得税の累進課税(場合によっては法人税の累進課税)を大幅に傾斜させてそこから老後の生活保障制度を充実させるなどの制度改革を考えなければならない

 〔( )内は引用者〕。                                                                                                   続く


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Last updated  2019.03.30 18:52:53
コメント(20) | コメントを書く
2010.07.03

 Mr. Hot Cakeさんのブログで、ある経済学のサイトが紹介されていました。

 さまざまな点について具体的に問題提起が行われており大変興味深いものでしたが、「北欧型の所得の再分配」を行うことが方向性として大切だという観点は『国家と文明』をめぐる拙ブログ記事と共通しているようです。

 この記事をめぐって私は次のようにコメントいたしました。

>ただ、「豊富な財源を土台とした所得の手厚い再分配」の前提として社会の「中流階層」が分厚くなければならない例えばフィンランドの場合採用5年目の看護士の月給自体が日本円で32万円)と思いますね。

>そうすると、今の労働分配率を変えていくためにも(「同一労働・同一賃金」に近づけていくためにも)労働運動の立て直しがポイントになるでしょう
非正規労働者を中心とする組合の活動にも刺激を受けながら有力な労組・労働団体が「社会性を取り戻していく」方向で再生を目指すことが重要な実践課題だと思います。

 その後のコメントのやりとり(ブログのコメント欄)のなかで、Mr. Hot Cakeさんから、貴重な問題提起をいくつもいただきました。分量だけでもかなりのものですが、それを少しずつ引用しながら私なりに考えを述べてみたいと思います。

>で、貧困問題を本当に解決していくには、私は北欧型の福祉国家体制(日本型に変容は必要ですが)にもっていくしかないと思っています。それには制度の大幅な改革が必要になる。制度を今のままにしていて豊富ではない限られた政府財源の分配に争っていても、必ず予算を削られた部門から犠牲者が出ます。

 ここまでは、私のコメントの趣旨にそった応答ですが、「(労働分配率を変えて)中間層を分厚くする」ために直面する現実の困難をMr. Hot Cakeさんは次のように指摘されます。

>日本の企業の99.7%が中小企業でそのうち小企業が87%、大企業の比率は0.3%でしかないのに常用雇用者・従業員数比率はその大企業に30パーセントが集中して残り70%が中小企業(総務省2006年調査)。

 いわゆる「二重構造」の問題ですが、仮に正規労働者同士を比べても、企業規模による大きな賃金格差があり、特にここ数年来中小企業の正規労働者も、「中間層」から「低所得層」へシフトしてきているのが実態だと思います。

>そしてGDPのほとんどが大企業によってなされている現状。そのような前提で大企業に就職できるかどうかは「自己責任」で語られる業別労組制で(せっかく手にした)大企業の労組である恵まれた労働条件を非正規労働者のために手放すはずがない

 確かに従来、大企業の労組中心に組織された労働団体が上記のような傾向を強く持っていたことは間違いありません。しかし、「反貧困ネットワーク」などの草の根運動が、そのような傾向を揺り動かしつつあること もまた事実です。

 というのは、このネットワークには各種NPO、弁護士、フリーター労組全般労働組合、首都圏青年ユニオン等だけでなく、ナショナルセンターである連合・全労連の代表も参加しているからです。例えば連合が「非正規労働センター」をつくったり「外国人労働者に関する当面の考え方」をまとめていることと、反貧困ネットワークに参加していることとは決して無関係ではないでしょう

 湯浅誠が『反貧困』の中で述べている以下の言葉は、既成労組の組合員にとっても強い説得力を持つにいたったと考えられるのです。
 (「野宿者」、「非正規労働者」など)先駆けて警告を発する者たちを自己責任論で切り捨てているうちに、日本社会には貧困が蔓延してしまった。(・・・)野宿者が次々に生み出されるような社会状況を放置しておくと、自分たち自身の生活も苦しくなっていく。労働者の非正規化を放置し続ければ正規労働者自身の立場が危うくなる、(・・・)

 手近に悪者を仕立てあげて、(・・・)結果的にはどちらの利益にもならない「底辺への競争」を行う。もうこうした現象はたくさんだまた同じことを繰り返すのだとしたら、私たちはこの10年でいったい何を学んだのか

 反貧困ネットワークの運動や、非正規労働者の組合活動から刺激を受けること、そのような運動から生まれた「現実的な問題提起」を受け止めていくこと、それは「労働運動が社会性を取り戻していく第一歩」であろうと考えるのです。
                                                     続く
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Last updated  2019.03.30 18:53:57
コメント(6) | コメントを書く
2010.06.02

 前回と前々回、制度的・構造的に生み出されている根本的な矛盾の一つである「貧困」を社会全体の問題として解決していくことを妨げる「文化」(多くの人たちが共有してきた「自己責任論」等の価値観)があることを述べました。

 そのような「文化」を背景に放置されてきた現実はなお深刻で、非正規労働者の実態が改善されないだけでなく、正規労働者の長時間労働もおさまるところを知らず、自殺者は12年連続で三万人を超えました。(2009年末)

                         
 しかし、「貧困」をはじめとする「資本主義(特に日本型資本主義)の矛盾」はいま急に噴き出してきたわけではありません。

 例えば、すでに1984年の『高校生活指導』には、「昨年の自殺者は25,000人を突破し、戦後最高を記録した」という記述がありました。

 また、『ニッポン ほんとに格差社会?』の中で池上彰は複数のデータを検証したうえで、「意外にも日本は以前から相当な格差社会だった」という趣旨のことを述べています。 

 「豊かな社会」・「一億総中流社会」の幻想(及び「日本型資本主義の神話」:後述)を背景に見えなくなっていた問題が数多くあるのではないかそれらが、資本主義経済の生み出してきた問題(公害・環境問題、貧困、過労死、自殺)などの問題解決を妨げていたのではないか、そのように問うことが必要だと考えるのです。
 
 日本型資本主義の「神話」について湯浅誠は次のように述べています。

 かつて、社会の標準生活モデルは日本型雇用だった。
 (・・・)
 「企業は家族」といわれる土壌ができ、家族でもなく地域でもなく企業コミュニティが、社会の核をなした。(・・・)終身雇用、年功型賃金、高い退職金をはじめとする手厚い福利厚生という典型的な日本型雇用を享受している人は、労働者全体の2割3割程度にすぎないとされていたが、その親、その妻子、学校教師らその他大勢に規範として内面化され、「そうなるべき」とも言われた。そして、内面化された規範は“神話”となった
(・・・)
(いわば「勝ち組」を目指せ、がんばらなければ「負け組」になるぞといった・・・)

 それ(非正規労働)で家計を維持しようとする者は、以前から苦しかった。(・・・)母子家庭、期間工や日雇労働者たちは、典型的な企業・家族のヒエラルキーに位置づけられない「はずれ者」であり、高度経済成長からの「おちこぼれ」だった。元祖ワーキング・プアである。しかし、(・・・)一言でいってその人たちは「計画性がなく、辛抱が足りない」のだとされた
(・・・)
 そして、1980年代、実際に欧米に追いついた。可能にしたのは日本型雇用であり、(・・・)労使一体型の日本型労務管理だった。(・・・)


 その裏側には、生活丸抱えの中で膨大なサービス残業をこなす男性正社員がおり、(「社畜」「カローシ」)彼らにぶら下がって暮らす他ない女性・若者たちがおり(DV被害者の不可視化)「ケイレツ」の下請けいじめがあり個別企業に抱え込まれて社会性を失った労働組合の弱体化があった。     
                                 〔『岩盤を穿つ』214頁( )内は引用者〕

 このような日本型雇用について、『国家と文明』の中で竹内芳郎も言っています。


 「日本の企業内人間関係を支えているものは、決して近代的な契約観念ではなく、伝統的な共同体の理念であるはずで、実にそうであればこそかえって、日本企業はまさに労資一体となって国内では誰はばかることなく〈公害〉をまきちらし、国外ではエコノミック・アニマルの異名をほしいままにしつつ、世界に冠たる〈高度成長〉の大偉業を成し遂げたのではなかったか」(321頁)と。
 
 つまり、 「経済の構造」を基盤に生み出される社会の矛盾や、それを見えにくくさせている共通の「文化」(価値観)を意識化するにしても、近年の「市場原理主義」、「新自由主義」だけを問題にするのではなくそれ以前から連綿と続いてきた日本型資本主義を土台とする「文化」「価値観」に目を向けるべきことを湯浅誠や竹内芳郎は示唆しているのです

 ただ、企業丸抱えの「労資一体」を批判しつつも、竹内芳郎は自らを「共同体復権論者」と言っています。しかし、復権されるべき共同体は、「精神労働と肉体労働の分業に基づく支配」や「上位の統一者」を生み出すことのない、「(直接民主主義的で対等な)市民的共同体」なのです。



 さて、遅まきながら日本でも(民主党政権が貧困率測定と削減目標の設定を指示し)、貧困問題はようやくスタートラインに立ちました。また、全国各地に非正規労働者も加入できる「地域ユニオン」ができ、当事者が立ち上がっていく数多くの事例も紹介されています。                      

                     〔雨宮処凛『生きるために反撃するぞ』(筑摩書房)など〕

 「派遣切り」「貧困」「自殺」「過労死」・・・、人間が「資本増殖の手段」となることで生じる様々な問題を克服していく客観的な条件は膨らみつつある、と言えます。が、実際に変えていくためには「北欧社会とは異なる日本の現実」と向き合っていかなければならないわけです。


 以上、なんと24回にわたって『国家と文明』の内容を紹介してきました。ずいぶん長文になってしまいましたが、お付き合いいただいた皆さんに感謝申し上げます。ただ、これでも「幻想国家論・共同体論」 (国家や共同体がメンバーにとってどのように意識・幻想されるかをナショナリズムの問題も含めて追求した考察:その一部はこちらなど、割愛した点がいくつもあります。

 関心のある方はぜひ「そのもの」を読んでいただけますでしょうか。マルクス主義の成果および問題点と真っ向から向き合い見事に再構成していった『国家と文明』は歴史の全体化理論であると同時に、マルクス、ルソー、マックウェーバー、サルトルらを含む人類の英知を結集した理論であると私は考えています。


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Last updated  2019.04.14 00:38:24
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2010.05.29
「資本主義経済を基盤とする成熟した市民社会」がその変革を容易に許さない「価値観」は「自己責任論」であること、その克服に向けての条件は整いつつあることを前記事の後半で述べました。

 その根拠は、何でしょうか。

 私たちの社会の矛盾、とりわけ「新自由主義」「市場原理主義」の矛盾が明らかに激化しており、それがはっきり目に見える形をとってきていることです

 竹内芳郎は、『国家と文明』において「史的唯物論」の「生産力-生産関係矛盾論」を検討した結果、「生産様式(経済構造)の矛盾はただちに社会体制の変革につながらないこと」、「社会の変遷には周辺革命の傾向的法則性が働くこと」を明らかにしました。

 しかし同時に、再構成によってこの理論(仮説)が無意味となるわけではなく、「生産様式(例えば市場原理主義的な資本主義経済)の矛盾の解明は社会変革の「1、客観的可能性」や「2、変革の方向性」の解明にはいまなお有効である、と述べています。

 さて、社会変革の「1、客観的可能性」についてですが、しだいに「自己責任論」を克服する方向へと現実が動きつつあるかに見える理由をまず補っておきましょう。それは、「反貧困ネットワーク」をはじめとする多くの人々の活動・努力も背景に「新自由主義」、「市場原理主義」の矛盾がはっきりと目に見えるようになってきた(可視化されてきた)ということです。

 それは同時に、日本社会の底にある現実(貧困など)やそれを克服しようとする取り組みが多くの報道機関によって意識され、重要な問題として提起されるに至った、ということでもあります。

 湯浅誠は、次のように述べています。

 転換点は、2006年度夏のNHKスペシャル「ワーキングプア」および朝日新聞の一連の偽装請負報道だったことは間違いない。 「格差」という表現が一般化し、それだけでは収まらない現実をどう提示するかという点で、「貧困」は報道の表舞台に、おそらく高度経済成長期以後初めて、何十年ぶりかで復活してきた。                               〔『岩盤を穿つ』163頁〕

 さらに、貧困が子どもたちに与えている深刻な影響についてはNHKスペシャル「しのびよる貧困 子どもを救えるか」でも特集されました。

〔なお、 「ワーキング・プア」に関する紙屋さんの詳細な解説はこちらです〕

 このような報道や活動を背景として「現実認識が変化」し、大きな矛盾と問題が現存することを人々が生活のなかで実感したからこそ「政権交代」も実現したのでしょう。ただ、当然のことながら、今後の「2、変革の方向性」こそが問題にされなければなりません。

 「人間らしい労働と生活を確立することが『責任』だとされる社会にしなければならない」、という湯浅誠の言葉を引くまでもなく、これまでないがしろにされてきた「生存権」・「社会権」を確立していくことの必要性は、多くの論者や各種の報道機関にも意識されておりそれが「北欧社会」への関心の高まりにつながっています

 「しのびよる貧困 子どもを救えるか」ではフィンランドの事例が紹介されていましたが、『週刊東洋経済』『オルタ』などを含め、色々なところで北欧の社会が紹介されています。

 そして、北欧のように「生存権」「社会権」がしっかりと確立されていくことは同時に「生産様式の矛盾(経済的矛盾)の克服」という観点からも有効である、ということも多くの論者が指摘しているところです。(『東洋経済』1『東洋経済』2

 Mr. Hot Cakeさんにご紹介いただいた経済学のブログも興味深いです。

(竹内理論では、「成熟した資本主義社会の周辺で、比較的短期間に生存権・社会権の確立に向けての合意形成と社会づくりに成功した北欧社会」が、EUのみならず日本においても有力なモデルとなっているのです。)

 しかしながら、私たちが共有してきた文化(価値観)というのは、成熟した「資本主義経済体制」(例えば「日本型資本主義」)を背景にして強固に形成されてきたものであることそれを変革し、さらにこの社会を変革していくことは、まさに「『岩盤を穿つ』ほど困難である(困難をなお残している)」ということも正面から見据えることが必要でしょう。 

 「日本型資本主義」を基盤とする私たちの社会の矛盾は、何も最近になって初めて発生したわけではありません。

 貧困問題は、現実には高度経済成長期を通じて、日雇労働者やシングルマザーなどにおいて連綿と引き続いていたにもかかわらず、「一億総中流」の中で忘れ去られていた〔『岩盤を穿つ』163頁〕という指摘も含めて、なぜ矛盾が矛盾として共有されてこなかったのか、ということを追求していくことが大切であると考えるのです。

                                                                 『国家と文明』(まとめ3)へ
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Last updated  2019.04.14 00:38:56
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2010.05.22

 さて、これまで長々と紹介してきた『国家と文明』が具体的な実践(よりよい社会の形成)にどのような示唆を与えてくれるのか、補足しながらまとめていきたいと思います。 

 このシリーズの第1・2回目に私は、「“市場原理主義”が貧困や環境問題などさまざまな矛盾を生み出すことが明らかになってきた現在人類の未来を切り開いていく上でマルクス主義・社会主義思想は貴重な示唆をもたらしてくれる」として、「適切に理解・構成されたマルクス主義」について次のようにまとめました。

1、社会主義理論や実践の目的は「人間の全面的な解放」である。

2、これを実現するためには、「解放」や「自由」・「平等」(あるいは民主主義)といった理念を提示するだけでなく、経済的な条件を変革していくことが不可欠である。
主客転倒の原理人間を利潤追求の手段にしてしまう資本主義経済の原理を貫徹させたままでは人間の全面的な解放は不可能である)

3、この変革の客観的な条件や展望は、現実に動きつつある社会や歴史を深く解明することによって見出すことが出来る。(そのための理論が史的唯物論)

 さて、上記1・2についてですが、特に「社会主義の立場」をとらない人々にとっても「人間が解放された民主的な社会(自由権と社会権が理想的に実現された社会)が望ましい」ということについては広範な合意が成り立つと考えています。


 そして、そのような社会に近づいていくためには経済的な条件を整備すること主客転倒の原理人間を利潤追求の手段にしてしまう資本主義経済の原理をそのままにするのではなく、少なくとも何らかの歯止めをかけていくこと(例えば現行「労働者派遣法」の改正等)〕の必要性についてもかなりの合意が得られるのではないでしょうか。

 そして、このような歯止めが有効に機能しているかに見える北欧社会の「国づくり」についてもブログ記事で触れてきました。私は(さまざまな問題が存在するにしても)北欧社会の歩み・方向性は望ましいものだ、と考えています。

 しかしながら、北欧社会は「一つのモデル」であるにしても、私たちが生活している「この社会」をよりよいものにしていくためには「客観的な条件」を考えていく必要があるでしょう

 そもそも、北欧と日本の客観的な条件の違いは何でしょうか。また、日本における「社会変革の客観的可能性」についてはどのように考えるべきでしょうか『国家と文明』の理論的成果を踏まえ、この点について考察しておきたいと思います。これは「適切に理解・構成されたマルクス主義」の3(上記)に関連しますね。

 竹内芳郎は、「史的唯物論の再構成」の作業を通して、人類史において「周辺革命の傾向的法則性」(例えば、「成熟した資本主義社会」よりも、その影響を受けた周辺の地域で「新しい社会」が形成されていくという傾向)が働いていることを見出しました。

 これを踏まえれば、ロシアや中国、キューバ、ベトナム等だけでなく、北欧における「資本主義の矛盾を克服する社会づくり」についても理解しやすい、と私は述べましたが、そもそも典型的な社会の移行・変革が、ほとんど常に「周辺革命」だったのはなぜでしょうか? 竹内芳郎は次のように答えます。

 ある社会が成熟しきった時には、その中にあって社会を変革すべき任を担った階級自体もその社会の成熟した「文化」に埋没してしまうことが多いため。(むしろ成熟した社会の「周辺でその影響を受けた地域」が比較的容易に次の社会への移行を果たす)

 上記の「文化」とは大ざっぱに「社会・政治制度や人々が共有する価値観」ととらえておきましょう。そうすると、「資本主義経済」を基盤とする成熟した市民社会がその変革を容易に許さない「価値観」とは何でしょうか

 「自己責任論」がそれにあたると私は考えています。 

 『週刊東洋経済』 2010年4月24日特大号にも次のような文章がありました。

 貧困問題解決に向けて「富裕層から低所得層に所得を再分配する方法」、これにはいつの時代でも困難が伴った。市民社会のルールである「生活自己責任原則」に基づく個人主義のモラルが「貧困は怠惰、浪費などの個人の能力や性格に原因がある」との見方からの脱却を容易に許さないからだ

(「反貧困ネットワーク」の事務局長で、「セーフティーネットの張りなおし」に取り組んでいる湯浅誠も数年前「“自己責任論”という名の強烈な向かい風が吹いている」という文章を書いていました。)

 例えば日本や米国においては、この「自己責任論」が改革の大きなネックになっているように思われるのです。これは、克服できるのでしょうか。

 克服に向けての客観的な条件は整いつつある(克服に向かいつつある)と私は考えています。

                                                                           『国家と文明』 (まとめ2)へ


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Last updated  2019.04.14 00:40:09
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2010.05.15

 前記事で私は、旧マルクス主義の中にある一種の科学信仰(理論信仰)に対して「始祖のマルクスは一切責任なし」と考えているわけでもありません と述べました。

 このことに関連しますが、まず、旧ソ連・旧東欧圏の崩壊は「マルクス主義の歴史的敗北を意味する」という厳然たる事実は必ずおさえておく必要があるでしょう。

 なぜなら、「空想から科学へ」を標榜したマルクス主義は、まさに「歴史の科学的法則」をとらえたと自認する思想であり、資本主義社会が崩壊し社会主義社会が到来すること」によってはじめて「その正しさ」が立証される思想・理論だったからです。

 旧ソ連・東欧圏の崩壊についてはすでに拙ブログ記事(『国家と文明』 内容2)で触れました。

 しかし、それ以外の中国、ベトナム、カンボジアや「自主管理社会主義」を目指すとしていた旧ユーゴスラヴィアなども含めて、マルクス主義を標榜する国家がほとんどことごとく「解放された社会」の建設に失敗している事実は限りなく重い、と言わなければなりません。

ただし「キューバ」については別の評価もあるようです。)

  近年、「資本論ブーム」復活か、と思えるほど『資本論』に関連した書籍が次々に発刊されていますが、上記の「厳然たる事実(=マルクス主義の歴史的敗北)」に真っ向から向き合わないままで展開される「学者や党理論家の解説」が果たして説得力を持つのか、ということが問われなければならないでしょう。

 そして、私が竹内芳郎を評価しているのは、自己批判的にこの事実に正面から向き合おうとしているからです。この姿勢は初期から一貫していますが、1982年(旧ソ連崩壊の約10年前)執筆の「唯物史観の運命」(『具体的経験の哲学』第二論文)では、無政府主義者バクーニンのことばを引きながら次のように述べています。

 「科学の名において生活の掟を発布することをおのれの使命と感じているこの科学の騎士たち〔マルクス派〕は、すべて反動的である・・・・・・科学が人々を統治せねばならぬというところから出発するならば、幾百万の人々が百または二百人ほどの科学者たちに統治されることになってしまうだろう・・・・・・

 彼らに歯止めをかけなければ、彼らはまさに科学の名のもとに、今日ネコやイヌに対しておこなっているのと同じことを、こんどは全人類に対して実験するようになるだろう!」

 「〈科学的社会主義〉とは・・・・・・本物または贋物の科学者たちのごく少数の貴族階級による、プロレタリア大衆への専制的支配以外の何ものでもない」、と。 

 バクーニンのこの予言は、不幸にして、歴史の中で見事に的中してしまった。

                  〔竹内芳郎 『具体的経験の哲学』123頁 「唯物史観の運命」〕

 確かに「マルクス主義を生み出した状況はまだ乗り越えられていない」(サルトル)としても、現実の歴史を踏まえつつ「マルクス主義は必ず乗りこえられなければならない」という竹内芳郎の主張を私は支持しています。

  そして、そのために彼が取り組んだのが「史的唯物論の再構成」であり、 「国家論の見直し(分業国家論の重要性の強調)」であり、 「科学のあり方の再検討」でした。これらの多くは、マルクス・エンゲルスの思想自体に伏在していた貴重なものはどんどん掘り起こしつつ、マルクス主義理論そのものを再構成する仕事になっているのです。

 

 以上、『国家と文明』を中心に「竹内芳郎理論の歴史的な意義」、「私自身が評価する点」について述べました。

 しかし、この理論はその目的からいって「現実を解明すると同時に変革の方向性や客観的可能性を明らかにするもの」、「社会を変革する(よりよい社会を創っていく)ための実践的な示唆を与えるもの」でなければならないでしょう。

 確かに、これまで述べたことの中にも、そのことに関連する内容はできるだけ盛り込んでいくようにしてきたつもりです。ただ、もう少し補足が必要でしょう。

 最後に、そのような意味における「竹内芳郎理論」の実践的な意義についてもう少し述べてみたいと思います。 

                                               『国家と文明』 (まとめ1)へ

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Last updated  2019.04.14 00:41:23
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2010.05.03

 前記事で私は「主体=個々人の具体的経験」を大切にし、絶えずそこへ立ち戻っていく姿勢につながっていくこと、これも竹内芳郎の提唱する〈世界-内-認識〉、〈世界-内-科学〉の大きな意義だと述べ、以下のような引用をしました。

 あらゆる科学は具体的経験の抽象化であり、その抽象化の仕方に応じて個別諸科学が成立する。しかし、その抽象化の母体である具体的経験を忘却した時、科学は深刻な人間疎外をもたらす
                       (竹内芳郎 『国家と文明』、『マルクス主義の運命』など)

 「現実のマルクス主義」、「ソ連・東欧などの旧社会主義国」がこのような「深刻な人間疎外」を拡大再生産していたことは明らかだと思われます。そして私は、そのこと(例えば旧マルクス主義の中にある一種の科学信仰)に対して「始祖のマルクスは一切責任なし」と考えているわけでもありません。

 しかし、彼が「科学的抽象化」の母体である具体的経験を忘れていたのかというと「決してそうではない」と考えます。例えば、 『資本論』第13章の「機械と大工業」の後半をみてもマルクスが「資本主義経済の総体」を冷静に(客観的に)描きながら、決して個々人(労働者)の具体的経験から目を離していないことがわかるでしょう



 さて、〈世界-内-認識〉〈世界-内-科学〉の第四の意義として「科学の地平における民主主義の強調」が挙げられます。

 事実、『国家と文明』で竹内芳郎は「〈人民のための科学〉ではなく〈人民による科学〉」こそが必要だと主張し、次のように述べます。
 「科学技術の地平においてさえ、私たちに要請されているところはまさに〈直接民主主義〉であって、したがって〈文明〉転換の課題そのものが、深く現代民主主義の課題と契合しているのである。」 

                          (『国家と文明』終章 「文明転換と支配の廃絶」より)

 しかし、具体的に、そのような〈科学〉はどのようなあり方をとるでしょうか

 『国家と文明』319頁で、竹内芳郎は次のように述べています。
 「科学の場でも専門家による素人の支配、精神労働による肉体労働の支配が廃絶され誰もがその主たる生活の場で科学者たりうる道が拓かれ、かくして従来のようなビッグサイエンスではなく〈等身大の科学〉が樹立さるべきこと。」

  さて、誰もがその主たる生活の場(あるいは実践や運動の場)で科学者たりうる具体例として私自身の頭に浮かぶのは、次のような実践です。

 農林業や炭の生産などに取り組む人たちが、作物や土や樹木や生態系に関する「学習・研究」を行いつつ、(作られたものの質だけでなく環境全体への影響も含めて)よりよい生産を目指していく

〔このような取り組みが広がりつつあることは、さまざまな個人がブログで発信している「情報」からもうかがえます。たとえば「すみや4134さんのブログ」などはいかがでしょうか?〕

 今よりも安心して生活できる世界を目指して活動する環境NPOや反貧困ネットワーク等の人たちが「現状に関する自然科学的あるいは社会科学的な研究」を行い、具体的な実践・運動に活かしていく。(活動の必要性や有効性について検証しつつ合意を広げていく。)


 このように運動・実践しながら(あるいは生活しながら)「科学」を行う人たちの営みを図式化すると「状況における実践的な課題の設定⇒具体的な現実の科学的認識(あるいは技術的な試行錯誤)⇒現実に働きかける実践的な見通しの獲得」、ということになるでしょう。

 さらに具体的な例を挙げるとすれば、私は湯浅誠の『反貧困』などはそのような実践・探求のすぐれた取り組みだと考えています。この著書には鋭い「社会科学的な探究・考察」が随所に見られ、「研究者」には見えないような事実や観点が明確に提示されていると同時に、現代の社会の姿、進むべき道が示されていると判断するものです。

 本来は、マルクスの「仕事」もこのような実践の延長上にあると考えるのですが・・・。

                                                                                    『国家と文明』 内容18へ

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Last updated  2019.04.07 19:41:22
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2010.04.30
『資本論』第13章「機械と大工業」の文章

 前記事で私は資本論の方法として「上向法」例えば商品や労働力といった抽象的な要因を他の要因と関連させ、より大きな具体的全体〔資本制生産様式の総体〕を明らかにすることを目指しつつ総合的な探究を進めるの意義を主調しました。しかし、マルクスは科学の方法としてそれだけを強調したわけではありません。

 彼は具体的なものを「分析し抽象化していく方法」を下向と呼び、これはこれで大切な意味を持っていると主張するのです。事実、資本論の最初は商品の分析から始まって「使用価値と(交換)価値の二重性」、「具体的有用労働と抽象的労働の二重性」、などを分析して取り出す(抽象する)ことによって労働力が「搾取」されていく過程と現実を明らかにしていきます
 
 また彼は「機械と大工業」の章では、全体として「工場制機械工業」の発展と「近代の資本主義社会の成立」、すなわち「産業革命によって生み出された社会全体の変化」について総合的に記述していきますが、一番最初のところでは「そもそも機械の本質は何か」ということについて分析・探究しています

 機械とは3つの部分〔=「原動機」(動力源となる部分)と「伝導機構」(動力を伝える部分)と「作業機」(自動的に作業する部分)〕がつながって様々な仕事を行う自動装置である、という具合に・・・。

 このように分析・抽象化して「本質をとりだす」ことから出発して機械や技術がどのように(連鎖反応的に)発展し、「資本制生産様式」・「近代社会」がいかにして成立していったのかを見事に解明していくのです。
 ​『資本論』第13章「機械と大工業」の文章をいくつか引用しておきましたので、ごらんください。


 以上、マルクスが『資本論』において用いた「下向-上向法」(竹内芳郎だけでなく私なりの解釈も入っていますが・・・)の概略です。

 さて、 『国家と文明』 内容15 で私は竹内芳郎の提唱する〈世界=内=認識〉、〈世界=内=科学〉の図を紹介しました。
 
 認識024.jpg
  認識や科学を上図のようにとらえることにはどのような意味があるのでしょうか。

  第一に、弁証法的(総合的)認識の意義を確認すること、第二にそのような認識を「社会(歴史)の中に位置づけて相対化」する道を開いたことです。それは前回述べました。

 そして第三に「主体=個々人の具体的経験」を大切にし絶えずそこへ立ち戻っていく姿勢につながっていくこと、これも大きな意義だと考えられます。

 竹内芳郎は次のように述べています。

 「あらゆる科学は具体的経験の抽象化であり、その抽象化の仕方に応じて個別諸科学が成立する。しかし、その抽象化の母体である具体的経験を忘却した時科学は深刻な人間疎外をもたらす。」

 そして、科学的営みはあくまでも人間の「具体的経験」を豊かにしていくための方法として位置づけ、「 具体的経験の場で感得されるべき生活の充実はいかにして獲得されるか具体的経験の場で感得されている疎外はいかにして克服されるかを、執拗な科学的抽象化を手段として追求する」ことを提唱するのです。

                                         『国家と文明』 内容17

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Last updated  2019.04.07 19:40:39
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2010.04.23

 前記事でも述べた 『資本論』の方法に関連して、竹内芳郎は次のように述べています。
 その結論は、「教条化されたマルクス主義」と「近代科学」が持っている「認識方法上の欠点」を『資本論』は乗りこえている、ということです。

 さて、竹内芳郎のいう「旧マルクス主義の欠点」、「近代科学の欠点」とは何でしょうか。

 それは、以下の図 (竹内芳郎著『マルクス主義の運命』第三文明社127頁) で示されるように、いずれの場合も認識する主体(党の指導者や科学者)は、まるで上空を飛翔して地上を眺めおろすように、「対象の全体を一挙にそして客観的に把握できる」という独断的な前提に立っている、という点です。

 この独断の欠点は、とりわけ社会学・経済学・歴史学などにおいて明確に現れます。なぜなら認識主体が(「研究対象」である)特定の「社会」・「経済」・「歴史」の中に巻き込まれているからです。

 つまり、自らが社会・経済・歴史の構造そのものによって大きな影響を受けているにも関わらず、そのことに無自覚なまま、「自分は社会について客観的な認識をなしえている」と独断的に主張することになってしまうわけです

 認識022.jpg

 さて、旧マルクス主義(レーニンの『唯物論と経験批判論』)において、認識とは「反映」であり、まるで精巧なカメラによって世界全体を写しとる(映しとる)ように、客観的な認識が可能である、と主張されました。

 ところが、「史的唯物論」によれば、認識も含む人間のあらゆる営みは「社会・経済の構造」によって規定され条件づけられた「時代の産物」であり、その意味において「純粋に客観的な認識などありえない」ということになります。

 この矛盾はどのように「処理」されたのでしょうか。なんと、「時代の産物」としての制約は「他者(例えば党の指導を受ける大衆)」だけに適用され指導者だけは「歴史の客観的法則性・必然性」を正確に認識できる、と強弁されたのです。

 このような「認識論上の欠陥(ダブルスタンダード)」は、旧社会主義国において大衆を思うがままに操作操縦する「過ちを犯さない前衛党」が出現したことと、決して無関係ではないでしょう。

 しかしながらこれは「旧マルクス主義」だけの問題なのでしょうか?

 下の図をご覧ください。

認識023.jpg

 確かに旧社会主義国の場合、上記の欠陥がストレートに出てしまったといえそうです。

 しかし、このような「認識方法の欠陥」は、「マルクス主義」だけでなく近代科学全般に内在することを竹内芳郎は指摘するのです。例えば「構造主義」上空飛翔的な視点から「構造を科学的に抽象・認識できる」ことを前提にした主張です。 

 そのような「根本的な欠陥を持った認識」に対して、竹内芳郎は下記のような「世界=内=認識」、「世界=内=科学」を提唱します。つまり、認識の主体をあくまでも「社会」、「時代」の中に位置づけその中で制約を受けながら個人が次第に認識を(具体的なものへと)拡大していくと考えるのです

認識024.jpg

 以上のような竹内芳郎の考察を踏まえて、前回記事の最後の部分(以下に再掲)もご理解いただければ幸いです。

 このように一人の人間(例えばマルクス)が、資本制生産様式の全体を思い浮かべつつ、労働・生産物などの抽象的な「要因」を さまざまな他の「要因」と関連させながら し だいに「具体的全体」を構成していくという方法は、弁証法的(総合的)認識の意義を際立たせるとともに、そのような知的な営みを「社会(歴史)の中に位置づけて相対化すること」につながっていくでしょう。

                                                                                       『国家と文明』 内容16

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Last updated  2019.04.07 19:39:54
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2010.04.17

 『資本論』の方法

 『国家と文明』 内容12 の冒頭、私は竹内芳郎の次の文章を引用しました。

 「マルクス、エンゲルス思想のなかにも新科学のありようを示唆する貴重な萌芽があることは、私もいままでしばしば指摘してきた(・・・)」

 さて、それはどのようなものだったのでしょうか。
 まず第一に、『資本論』の方法(いわゆる上向法)から新科学のありように関する示唆を受け取ることができます

 私は先に『国家と文明』 内容6 で『資本論』の特徴を次のようにまとめました。

 資本主義経済における矛盾(例えば恐慌)は、この経済の特質である「主客転倒(人間が資本増殖・利潤追求の手段になるという意味における主客転倒)=疎外」によって生み出される(・・・)

 関連して、竹内芳郎は『資本論』におけるマルクスの方法について次の点を指摘しています。

 「彼の方法は単に現象を倒錯(転倒)として無視したり糾弾するのではなくて本質(例えば人間の主体的・創造的な労働)がいかに疎外されてこの倒錯した現象(例えば労働力も含めてすべてが商品化され資本に従属する世界)を現象せしめたかを、本質から出発しつつ現象を再構成して見せることによってあきらかにしたこと、 

 これであって、このような特性にもとづいてこそ、あの有名な〈下向=上向法〉――つねに具体的全体(例えば資本制生産様式の全体)を表象し(思い浮かべ)つつ抽象から具体へと再構成の歩みを進めていく方法――が『資本論』の具体的方法となったのである。」

                             〔『国家と文明』69頁 ( )内は引用者〕

 この〈上向法〉について岩林 彪(松山商科大学:現松山大学の経済学部教授)の社会経済学入門ノート(「3、ノート:マルクスって何者?」)も一部引用しながら簡単に説明しておきます。

 「ある国の経済を明らかにしようとすれば、その国の人口、諸階級、都市・農村人口、就業構造、輸出入、生産・消費、商品価格等々の経済学的考察が必要」であり、具体的な全体というのはつねにさまざまな要因が複雑に関連しあっています
 
 このような(資本制生産様式の)全体からすると「個々の労働」というのは「具体的全体から労働という要素を抽象したもの」に過ぎないわけです

 しかし、このような人間の労働という一つの要素を他の要素(例えば、労働が生み出す価値、労働生産物、価値を増殖させていく経済の過程、労働がその中に組み込まれていく機械や仕事場のシステム、機械・技術の発達が社会全体にもたらした影響等)と関連させていくことによって具体的全体を総合的に把握していくという方法(一般的な言い方では「分析(下向)」に対する「総合」)をマルクスは〈上向法〉と呼ぶわけです

 このように一人の人間(例えばマルクス)が、資本制生産様式の全体を思い浮かべつつ、労働・生産物などの抽象的な「要因」 さまざまな他の「要因」と関連させながらしだいに「具体的全体」を構成していくという方法は、弁証法的(総合的)認識の意義を際立たせるとともにそのような知的な営みを社会(歴史)の中に位置づけて相対化すること」につながっていくでしょう。

 竹内芳郎はこのことを早くも1950年代には(「唯物論のマルクス主義的形態」で)強調しているのです。この最後の問題については『国家と文明』 内容15で述べますね。


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