テーマ:"あすの日本を考える"(493)
カテゴリ:博物学・雑学・歴史・薬学のすすめ
![]() 小曾根乾堂(こぞねけんどう)は、今となっては多くが歴史に埋没していますが、商人として、文人として、識者として、外国通として、そして地域振興に尽くした人として、乾堂は自身の才能を惜しみなく発揮して日本の近代化に貢献した大器の人です。とくに、人脈に長じていたため、勤皇・佐幕を問わず、誰からも一目置かれた上に、文人としても篆刻、書画、音曲、骨董と何をさせても一流で興味をそそられる人物です。 乾堂は、長崎屈指の豪商の家に生まれ、文芸に秀でていた父親 六左衛門の期待を受けて、幼い頃から書や南画、篆刻(てんこく)、詩や和歌などを熱心に学んで、感性豊かで多趣味な青年に成長しました。 書は春老谷、水野眉川などの名書家に学び、とくに篆刻では自身で印譜「乾堂印譜」や「乾堂印藪」を刊行して高い評価を受け、十四代将軍家茂に謁見して隷書を献上したり、幕末から維新にかけて文人としても目立った足跡を残しています。 音楽にも興味を持ち、明清楽の三宅端蓮に師事して中国伝統の月琴を習得。 後年には、乾堂の音楽活動は小曽根明清楽と呼ばれ、長崎の無形文化財として現在でも残っているそうです。 乾堂の活動は、文人としての活動ばかりでなく、先を読む事業家としても大いに活躍した人です。 松平春嶽の支援によって、父親の六左衛門とともに浪ノ平の海岸一帯を埋め立てて港湾を整備し、交易拠点づくりに注力しています。 また、歴代長崎奉行との交流だけでなく、坂本龍馬や勝海舟とも緊密な関係を持ち、海舟の長崎妻(愛人) ![]() 万延元年(1860)、乾堂が海舟に宛てた手紙の中で「軍艦五百隻の建造と上海、ジャワ、仏、英、蘭に商館を開き、旭の旗を立てたい」という自身の想いを語っています。 新しい時代を築き、大船で世界へ乗り出すという龍馬の夢は、乾堂の夢そのものだったのです。 明治に入っても乾堂の活躍は止まらず、明治四年(1871) には日清修好条規締結の全権大使 伊達宗城の随員として清国に渡り、天津では日清修好条規文を書きました。 このとき、清国の全権大使に認められて「鎮鼎山房」の額を贈られたりしています。 晩年には地元地域に目を向け、小曽根小学校(後の長崎市立 浪平小学校)の創設や、寺社の建立、小曾根桟橋の建設、岩崎弥太郎が率いた三菱への高島炭鉱の譲渡斡旋など、精力的に活躍しました。 ちなみに乾堂が創設した浪平小学校は、2007年の統廃合によって130余年の歴史を閉じています。 乾堂を、粋人や文人、鼻が利く商人とかの一言で片付けることはできません。 小曾根乾堂とは、幕末から明治という時代を先取りした、開明思想家としてもっと評価されるべきでしょう。 維新以降の中国貿易、そして日本の近代化に果たした役割はとても大きいのです。 人に対する細やかな気遣い。 何事も手抜きせず徹底して学ぶ気力。 それに、人の才能や力量を見極め、人脈を築くしたたかな実行力です。 明治十八年(1885)、59才で没。 大器院白厳乾堂居士の諡号の名の通り、まさに"大器"の人物だったようです。 皆さんには本当にご無沙汰しています。久々の更新となりました。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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teapottoさん
>お久しぶりでございます・・ > >柿の画像に目が釘付けです・・ >我が家の柿は全滅・・(w_-; ウゥ・・ ----- めっちゃご無沙汰してます。。。 今年は豊作でしょうね。柿。 (2011年02月09日 22時04分17秒)
k-0228さん
>やっとかめです! >目立たない人が本当は功績が大きいんですね。 >今年の柿は全滅?スーパーの柿の値段の高さにビックリ!! ----- ご無沙汰です。。。 今年からは大殺界。地味~に生きていきます。(笑) (2011年02月09日 22時05分40秒) |
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