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カテゴリ:タコ生徒・学生期
「これ聴いたら、、、私を思い出してね。」
私が、3カ月のアメリカ旅行に出る少し前に好江がそう言って一枚のドーナツ盤を私にくれた。レイモン・ルフェーブルオーケストラの「シバの女王」だった。私は、この一枚をスーツケースに入れて、1974年6月4日にエアーサイアムに乗って羽田を後にした。飛行場へは両親と好江、そして大学の学友たち当時通っていた教会の方々などが見送りにきてくれた。 アメリカで最も小さなロードアイランド州のクランストンという小さな町に滞在した。日本から一緒にきた教会の友人ピーターソンさん一家の知り合いの家に泊まった。ちょうど、家主が旅行中ということで、自由に使わせていただいた。私は、地下一階にある一部屋を使わせてもらった。アメリカの家は地下室がしっかりしていてビックリした。洗濯なんかもそこでやっていた。核戦争に備えてなのだったのだろうか。 地下だから、夏でもひんやりする。部屋がもう一つあって、そこに旧式のレコードプレーヤーがあった。22歳になっていたが、初めての海外旅行でもあり毎日英語の生活の中で一人になりたい時が多かった。そんな時好江にもらったこの「シバの女王」を何度も何度も聴いていた。 「テッド、大丈夫?元気がないようだけど。」 旅行中、タコじゃなんだからと「テッド」というニックネームで呼ばれることになった。慣れるまでちょっと時間がかかった。誰のことを呼んでいるのかと。因みに、旅行の後半からは、両親にもらったタコに戻してもらうことになったが。ピーターソンさんの奥さんが部屋に籠って出て来ないでレコードばかり聴いている私を心配してくれたようだ。 フランス語を専攻していた好江はその頃、大西洋を挟んだパリのソルボンヌ大学の夏季講習を受けに留学していた。 「藤川君も私も、羽田で貴方の飛行機を追いかけて送迎デッキを走ったわ。」 約束の手紙がやっと届いたのは、東海岸から西海岸のシアトルに移った一カ月後だった。その頃の連絡手段は国際郵便だけだった。 ロードアイランドを出てからは、この曲を聴く機会は日本に帰るまでなかったが、ドーナツ盤はいつも見える所に置いておいた。旅行の後半は、何人かのアメリカ人の金髪娘と友達になったりして、前半のように部屋に籠るようなことはなくなって割と楽しくすごせた。ただ、彼女たちはみなクリスチャンだったし、私も当時は下心しっかりと封印したクリスチャンだったので良い友達で終わった。そして、8月の終わりに日本に帰国した。 「迎えに来なくていいって言ったでしょう!」 10月の中旬に帰る予定を12月の10日に延長して帰国した好江が羽田に出迎えた私に放った一言だった。半年間、待ちに待った日のことだった。他にも何人が出迎えの人がいたが、私との会話はこれだけだった。そして、父親とそそくさとタクシーに乗って消えていってしまった。出迎えの何人かは顔見知りだったが、私は一言も口をきかずにそのままモノレールに乗った。着ていたクリーム色のトレンチコートは、その少し前に買ったばかりの物だった。 http://www.youtube.com/watch?v=NGZfVto4loM&feature=related 毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。 タコ社長の本業・オーストラリア留学 タコのツイッター Twitterブログパーツ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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