5月20日、インドネシアからの独立記念日
特別増大号(過去のブログの再掲載ですが)長いので、写真だけ見るのもいいと思います 5月20日の独立記念日は、インドネシアからの独立を記念する日です。正式には独立回復記念日といいます。今日のブログは昨年(2012年)11月28日・29日にブログに掲載した東ティモールの独立の歴史の再掲載です。東ティモールには独立記念日が2回あり、11月28日はポルトガルに対して東ティモールが独立を宣言した日です。東ティモールは2002年5月にインドネシアから独立した人口110万人、面積は長野県ほどの小さな国です。昨年の12月には国連がほぼ完全撤退したので、今後は独り立ちして国づくりをおこなうことになります。 ↑ 東ティモールの国旗 どの家、どの会社、そして多くの車やバイクに掲げられます 11月28日は、東ティモールがポルトガルからの独立宣言をした記念日です。16世紀にポルトガルがティモール島に進出し、1769年にオランダとの条約により同島の東半分がポルトガル領、西半分がオランダ領と定められました。それゆえに、西ティモールはオランダの植民地から独立したインドネシア領となっています。1950年代からアフリカのポルトガル植民地のアンゴラやモザンビークは独立運動を繰り広げ、それに対してポルトガル政府は「植民地は本国領土と不可分」との方針の下弾圧運動をおこなっていました。ポルトガル本国から多数の軍隊が送られましたが若者は徴兵を忌避し海外亡命するものもいて、結果としてポルトガル本国は弊害してしまいます。ポルトガルでは1974年に植民地戦争に不満を抱いていた青年将校によるクーデターが起こり成功し、新政権は植民地の独立を認めました。(カーネーション革命、あるいはリスボン革命と呼ばれます。)たとえば、モザンビークは1975年6月に独立宣言を行います。 ↑ 今日(2013年5月20日)のディリ市の目抜き通りのようす 東ティモールはポルトガルの植民地でしたが、1950年代から続いていたアフリカのポルトガル植民地の独立運動からは取り残されていました。しかし、東ティモールでも1959年に独立運動があり、首謀者は国外追放になりアンゴラやモザンビークに逃げています。後に、東ティモールの独立の際に両国の影響を受けることになります。その後。東ティモールにはFRETILINやUDTなど独立を達成しようとするゲリラや政治団体が運動を始めました。ポルトガル政府の本国の事情から、ポルトガルは(1)本国に属したままの状態、(2)独立、(3)インドネシア併合の三つのシナリオを考えていたといわれます。FRETILINは完全な独立をめざしていましたが、UDTはインドネシアとの関係を重視していました。当時インドネシアは、FRETILINはマルキストでソーシャリズムだと宣伝していましたが、実際に国際社会がインドネシアの侵攻を黙認した背景には、第二次世界大戦後の社会主義勢力伸張に対する懸念があったといわれています。東ティモールが、アジアのキューバになる恐れに対してです。 ↑ パラシオ 政府庁舎・国会議事堂すでにインドネシアが東ティモール併合を意図し介入してきているのに対し、FRETILINはポルトガル本国や国ワルトハイム事務総長時代の国連に訴えたりしますが反応は鈍く、1975年11月28日にFRETILINは一方的にポルトガルからの独立宣言をおこないました。それに対し、1975年12月、スハルト大統領時代にインドネシア軍は東ティモールに侵攻し、1976年7月、東ティモールをインドネシアの27番目の州として宣言します。それ以降、インドネシアによる統治が行われ、ディリはインドネシアの地方の一つの町、軍の駐屯地となりました。しかしながら一方で、ポルトガル政府は、1999年9月の東ティモールのインドネシアからの独立をめぐる住民投票の直前になってはじめて、同年5月ニューヨークの国連で植民地東ティモールを放棄することをはじめて宣言しました。 ↑ 政府庁舎前では、バイクの曲芸大会が開催されていました だんだんと盛り上がってきましたが、最前列に近いところにいたので「まずい」と思い引き上げました お分かりになると思います 警察はきちんとライフルを持って警備しています 1975年11月28日にFRETILINが独立宣言をした数日後の同年12月、インドネシア軍は旧ポルトガル領東ティモールに侵攻しました。76年に27番目のインドネシアの州として併合された後、インドネシアによる行政がはじまります。健康保健、農業、公共事業、教育、報道などは、インドネシアの政策それ自体と一体化してゆきます。政治的な行事である、国政選挙も東ティモールの地方選挙もインドネシア国家として、またインドネシアの一地方行政地域のものとして行われました。これらのことは、national identityがインドネシアのものに移行していることを意味しました。 ↑ FRETILIN派の若者たちは集団でバイクを乗り回し、示威行為を繰り返していました FRETILIN党は先頭に立って独立運動を戦い、一回目の国民議会選挙では第一党になりましたが、二回目、三回目と議席数を減らし連立に失敗し政府与党になれませんでした 特に東部地方に支持者が多いのですが、比例代表制なので都市部に負けてしまいます 東ティモールの国旗はFRETILIN党の旗から作られました バイク集団の後を、きちんと軍隊の車が続いていました 1991年には、11,036人のインドネシアの公務員が働いていましたが、要職はインドネシア人が占めていました。また学校教育でもインドネシア本国と同じ教育が行われインドネシア語が教えられました。小学校の教員は東ティモール人も多かったそうですが、高校の教員のほとんどはインドネシア人が占めており、東ティモール独立後にインドネシア人教員が一斉に引き上げたため、東ティモールの教育制度は一旦崩壊してしまいました。現在でも、教員の7割は教員養成を受けていないといわれています。6万人から7万人のインドネシア軍も駐屯していました。1989年10月、スハルト大統領がディリを訪問した後、インドネシア政府は東ティモール開放を宣言し観光客も当地を訪れることができるようになりましたが、1991年11月2日のサンタ・クルス墓地の虐殺事件では外国人もインドネシア軍の犠牲になりました。この時に、外国人ジャーナリストがインドネシア軍の暴虐ぶりを海外に伝えました。(11月2日のブログをみてください。) ↑ 平和になったディリの海岸で そのような中、1996年に独立運動の指導者であるディリのカトリック教会のベロ大司教とラモス・ホルタ(後の大統領)が、ノーベル平和賞を受賞しました。同時にEUや米国でインドネシアによる東ティモール侵攻が問題視されるようになります。政治的黙認と、イギリス製やアメリカ製の兵器が侵攻に使われている事実も議会で問題になりました。1998年、インドネシアもアジアの金融危機に見舞われスハルト大統領は辞任しましたが、後任のハビビ大統領が東ティモール問題に対する国連のサポートを認め、1999年5月9日ニューヨークで関係国会議が開かれ、1999年8月30日の「独立か」、「インドネシアの自治領として留まるか」を問う直接国民投票実施に至りました。投票率は98.6%、独立支持はほとんど80%でした。そして、2002年5月20日、国家復興の日を迎えます。しかし、この1975年から2002年までの間に、多くの難民と、約20万人近い死者・行方不明者が出たといわれています。 ↑ 海岸沿いのこの公園には、最近まで難民が住んでいたそうです 昨年独立10周年を機に、公園が造られました