カテゴリ:外国史
こうして、三部会の議員選びが始まりました。第三身分の議員選びはどうだったかというと、都市では、まずギルド毎に、親方の集会を開き、そこでギルドの代表を選び、2次集会(都市の選挙集会)に送ります。ギルドの規模や親方数によって、派遣出きる代表数が決まります。職人は職人組合として代表を送りますが、都市の集会での発言権は、ほとんどありませんでした。1次集会の特徴は、そこで、政府や議会への要望があれば、陳情書を作成して提出せよとの但し書きがあったことでした。これらの陳情書のかなりの部分が、発掘され今日では刊行史料として出版され、手にとって見ることも出来ます。 ただ、2次集会へ赴く代表達は、いずれもギルドの有力者であり、ここでの雰囲気は1次集会のそれとは、大きく異なってきます。上層ブルジョワの意向が強く働く場に変貌しているからです。農村でも事情は同じです。1次集会は小教区(教会単位、多くは村単位になりました)毎に開かれ、共同体農民の主張を満載した陳情書を作成します。しかし2次集会が開かれる村村を集合した納税区単位(日本の郡にあたるでしょうか)になると、地主や富農といった農村ブルジョワの声が強く反映した人選になるのでした。そして議会への代表は、選挙運動を行なうことも出来ました。パンフレットを出版して、自分の主張を広くアピールする人物も現れます。 『第三身分とは何か』という有名な冊子を書いたシェイエスは、シャルトルの司教です。当然第一身分から選出されうる有資格者ですが、彼は第三身分と共に行動することを望み、第三身分の議員となるべく立候補し、選挙運動として、あの有名なパンフを発表したのです。ミラボー伯爵は貴族身分の嫌われ者だったため、第二身分から選出されることはありえないと、第三身分の代表となることを、目指したのです。 さて、こんな具合なのですが、三部会の召集が決まるまで、ダンマリを決め込んでいたブルジョワは、召集が決まると、途端に動き出します。いよいよ牙を剥きはじめたとでも言えましょうか。1614年のブロワ方式では、三身分の議員数は同数であり、投票方式は身分で1票です。これを改めて、(1)第三身分の議員数を2倍とすること。(2)投票方式を一人1票に改めること。の2点を要求したのです。 この要求に対し、財政総監のネッケルは、三部会が保守的貴族の牙城となることを恐れていたため、ただちに第1の要求を認め、第三身分の議員枠を600名に拡大しました。しかし、保守派貴族との決定的に激突することも避けたいと考え、第2の要求は受け入れず、さりとて否定もせず、審議方式は未決定のまま、三部会の審議の中で決めれば良いという態度を貫いたのでした。 こうして、5月5日に開幕した三部会は、最初から波瀾含みだったのです。投票方式を巡って、特権身分と第三身分の対立が抜き差しならない状況にあり、早番どこかで、激突することが避けられない情勢にあったのです。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.07.17 02:17:05
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