カテゴリ:外国史
フランス革命(17) ところで、国王一行は、警備の厳しいチュイルリー宮殿をどうやって抜け出したのか。ここが問題です。 89年の7月15日にパリ市長の椅子についたバイイの下に、どこからともなく、国王の逃亡計画が進行中だという話が届けられ、彼がラ・ファイエットに、一層警備を厳重にするよう申し入れたのが、おりしも6月20日の日中だったのです。これを受けて、ラ・ファイエットは自ら王宮に趣き警備状況を確かめているのです。 王家の一行は、王室の居間の下にあたる、この時は使用されていなかったヴィルキエ卿の個室(当時、国王の寵臣は、王宮内に部屋を頂戴出きるか否かを競っていました。ヴィルキエ卿は寵臣の1人でした)から、中庭にでたことが分かっています。この部屋の鍵を王妃が持っていたことも。そして、その夜、ラ・ファイエットが警備状況をチェックしていたのに、何故かこの部屋の戸口には国民衛兵の歩哨が立っていなかったことも……。 ラ・ファイエトは、フェルセンが自由に王妃の部屋に出入りできるようにと、彼に便宜を払ったのでしょうか。それとも単なる手落ちだったのでしょうか。彼も共謀者だったのでしょうか。もし共謀だったとすると、彼の目標は何だったのでしょうか。この点は今もって分かっておりません。タイムマシーンを持たない我々には、確かめようがありません。 さて、国民議会は翌朝21日の7時頃に王家の逃亡をキャッチします。前夜にまんまと逃亡されたことがわかると、もはや追いつかないと茫然自失の状態に陥ります。しかし、やがて気を取り直すと、早馬でまず国境地域へ、それから戻る形で、街道沿いの村々へ、国王の逃亡を触れまわります。 王家の一行は、まだ国境を越えていませんでした。信じられないスローペースで、進んでいたことになりますが、この晩10時過ぎにヴァレンヌで逮捕されるに至ります。 この間、どこで何をやっていたのか。次回はその点を記したいと思います。 続く
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