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テーマ:旅のあれこれ(9945)
カテゴリ:歴史散歩
オリエンテーションの内容はほとんど覚えていませんが、一つだけ忘れることのできない出来事がありました。
講堂で質疑応答の時間になったときに、米国の南部出身の男子学生が南部訛りの英語で質問をしたところ、大学側の人がその英語を全く理解できずにあたふたするという事態があったのです。 すぐに別のアメリカ人の学生がそれを翻訳して説明したので伝わりましたが、英語と米国語は違うのだということを示すエピソードとして今でも鮮明に記憶に残っています。 思えば、ブライトンで語学研修をしていたころにも同じようなことが起こりました。 映画館でハリウッド映画を見ているとき、米国のスラングや南部訛りの英語が出てくると、観客のイギリス人たちが、その意味がわからずざわつくという現象が度々ありました。 確かに英語と米語では単語の発音も、スペルが同じでも異なります。 ダイレクター(director)はディレクターになり、ヴァーズ(vase)はヴェイスに、トマートー(tomato)はトメイトーになります。 そのギャップを埋めるのに貢献してきたのが、米国のハリウッド映画なのかもしれませんね。 実はそのオリエンテーションでは、私が唯一の日本人留学生だったので、かなり珍しがられました。私の日本の大学である国際基督教大学(ICU)は、ブライトンのサセックス大学との間には交換留学制度があり、毎年交流があるのですが、ケント大学にはそれまでだれも日本人留学生は派遣しておりませんでした。ほかの日本の大学も留学生を送った形跡はありませんでした。 もちろん、カズオ・イシグロのように日本出身でイギリス育ちの日本人(1983年にイギリスに帰化)はいました。 私がケント大学に留学しているときにも、英文学を学んでいる学生にイギリス育ちの日本人女性がいましたが、いわゆる留学生ではありません。 私はおそらく、日本からの留学生のパイオニアだったわけですね。 サッチャー政権全盛の時代で、教育予算は削られ、大学は自らの生き残りをかけて、海外からの学生獲得にも力を入れているときでした。 学期が始まってしばらくして(あるいは翌年だったかもしれませんが)、私はケント大学の事務局幹部から教職員専用の食堂で開催されるディナーの招待を受けました。 行ってみると、ほかにも4、5人の留学生が呼ばれており、特に私は一番偉い幹部とみられる女性(名前も肩書もすっかり忘れました)の隣に座らされました。 ディナーは留学生5人、教職員5人くらいが出席して、それぞれの国の留学事情を説明するという趣旨だったわけです。 私は、ICUが既に世界中の大学と交換留学制度を行っており、英国ではサセックス大学と交換留学制度をあることや、さらにケント大学との交換留学制度に強い関心を持つだろうこと、英国人の学生がICUに来ても、英国人や米国人の教授がおり、英語で講義する授業が多いので問題がないこと、学生が海外留学や海外の学生との交流にとても意欲を持っていること、他の日本の大学も興味を持つだろうことなどを説明しました。 ケント大学当局は、それを聴いて非常に喜んだと思います。 その後何年かして、風の噂にICUとケント大学の間に交換留学制度ができたことを知りました。 あのときの説明が役に立ったのだとしたら、こちらも「親善大使」の役割を無事に果たしたことになりますね。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.10.20 22:30:06
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