|
テーマ:読書(8199)
カテゴリ:本日読了
2023/04/22/土曜日/寒さ戻る
〈DATA〉 WAVE出版 / 著者 高橋琢磨 2017年3月25日 第1版第1刷発行 〈私的読書メーター〉〈山田風太郎日記に橋田邦彦の名を知る。なぜか後ろ髪引かれこの本に出会う。もう少し彼の生涯に肉薄したものを想像したが、昭和前期と後期の政治、外交、戦争を浚う事に紙数を費や、というか時局の解説で資料の少なそうな彼の行動の背景を探った、と言うべきか。医学者橋田邦彦の著作『正法眼蔵釋意』はなぜ生まれたか。西洋科学は細部へと分け入り全体を捉える事がない。即ち医科学、医術あって医道なし。東洋に無かった医科学を一早く学んだ日本がその三位一体を完遂させ、人間をトータルに見る「科学する心」を啓く、という構想は果たして…〉 青年山田風太郎は、敗戦の詔に魂を千切られたのである。 最後の一人まで戦うのでは無かったか。 世界の片隅で、あの大人しいすずちゃんが、血相を変えて臓腑の底から叫んだではないか。 それが降伏だと!先立った息子たち、空襲に焼かれた老若男女、市井の人びと沖縄の惨状、これらにどう申し訳を開くのか。 自分のたちもその後に続くのだ。皆そう覚悟したではないか。おそらくごく普通の人の当時の率直な気持ちはそれだったと思われる。 ところが敗戦を一旦受け入れるとそんな昨日までが180度反転する。 小賢しく小利口に立ち回る人間が私益を膨らませていく現実が日夜、表出してくる。 国土壊滅に至らせた国の指導者がおめおめ生き延びて軍事裁判に引っ張られる姿に、なぜハラを切らないかと青年風太郎は歯軋りするのだ。 執拗に新聞報道を調べ、敗戦後188人の自決者である事に触れている。 その中に橋田邦彦が含まれ、青年風太郎は直接知り得ないはずの橋田が立派な人物であった事を特記している。 ところで東大銀時計の若き橋田邦彦が欧州留学の折携えたのは尺八、硯、陽明学の本、泉鏡花などであったという。こんな所に橋田という人がよく現れているではないか。 当時、学生らによる法律と医療相談に奉仕する「東大仏教青年会」に請われた橋田は医学、医療、医道、科学、宗教、政治に至るまで講和し、学生らに盛況であったという。 一方で生理学を独立した学会設立と為すなど実際家でもある橋田は『正法眼蔵』に基づき、学会長を置かないとした伝統が今尚続くという。 その行動力と学生から慕われ後進を育てる姿を見知った人物の推挙を受けて一高校長へ、更に難しい時局の文部大臣拝命を受ける固辞するもとうとう折れたが、学徒出陣には我慢ならず辞表を出した先に服毒自決があったのだ。 科学者橋田は日本の敗戦が見えており、大臣の地位に就くことの意味もその先も理解していた。まして幼い頃より繰り返し心身に刻んだ陽明学徒なのだ。 愛妻きみゑも養女の看護がなければ共に、の覚悟の青酸カリ。そしてそれは近衛の要請を受けて地中から掘り起こされ渡されたというのである。 橋田の遺書の辞世の句 いくそたび 生まれ生まれて 日の本の 学びの道を 護りたてなん 「科学する心」で「道」を通し科学立国せしめ、その科学を基礎に産業を起こし、日本の経済を強くし、その横展開によってアジア全体が豊かに発展する構想 そんな夢を橋田に見出した著者の経歴が野村総合研究所のロンドン支店長、主席研究員を務めた、というのはさもありなん。 そんな氏がどうしても触れずにおられない天皇の戦争責任について、感じる所は大いにあった。 文中、明治天皇にも引用される夏目漱石だが、昭和天皇に向けての文章は『坑夫』から。 「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ。富士には、かなわないとおもった。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士はやっぱり偉いと思った。よくやってると思った。 近衛や橋田の生き方を通して見てくると、おそらくこのようであらまほしき天皇が、著者に去来するのであろう。 実際の所はその変身振りに皆が戸惑ったのだ。 敗戦直後の自身による外交、神から降りて日本中をへ巡り、炭鉱にまで潜って坑夫を激励したかと思えば、いつの間にか奥所にこもり祈ることが多くなった、と。 橋田の遺書のもう一つの辞世の句 大君の御盾にならねど国のため 死にゆく今日はよき日なり 文中から読みたく思う資料『田島日記』、加藤恭子いくつか。 また時実利彦が橋田の愛弟子であったことを知る。彼の脳学と人間の成長を捉えたシリーズには多くを学んだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.04.22 12:35:58
コメント(0) | コメントを書く
[本日読了] カテゴリの最新記事
|