前田侯爵邸 建物は残った。
2023/11/11/土曜日/めっきり晩秋先週連休の好いお天気に誘われて、駒場公園の前田侯爵邸を見学した。文化の日の催しウィークとかで、フリーガイドが設置され参加してみることに。ツアーは小一時間。長いと躊躇したが、それでも早足巡りだった。見るべきものが豊富だ。↓東門の方からアプローチした風景前田侯爵邸は第16代当主、前田利為トシナリその人の時、竣工した。本郷の土地をT大に譲渡した代替地に、侯爵が望んで駒場の土地、当時3万坪だかを入手し、等価交換でお屋敷も構えたらしい。↓玄関ホール侯爵は英国留学や大使付き武官としての赴任の経験で英国式のカントリーハウスへの愛着があり、駒場の風景はそれを思い出させたらしい。 ↓広々とした芝生の裏庭からはお屋敷も小ぶりに見える。因みに、現代当主はこの11月に前田利宜トシタカ氏が19代になったらしい。ガイドツアーならではのタイムリーな話題も。トシタカ氏は京都でコーヒー屋になった云々を聞いて検索すると、なんとまぁ。「京都の朝はイノダから」の、イノダコーヒーの代表になられたのだった。 慶喜公もすなる珈琲を加賀の殿さま末裔も?そういえばツレの従兄弟も東京在住で京都にコーヒー屋を持ったとか。末裔から庶民までなんかいいらしい、京都でそれは。↓バルコニーに設けられた水鉢。家紋?玄関ホールを入ると素晴らしい階段が左側にある。階段下の空間がイングルヌックになっている。当時からイングルヌックの名で呼んだのだろうか。それは英国ではなく北欧のものだから。昔、とある方のアトリエをデザインしたことがある。その方は北欧暮らしが長く、イングルヌックを所望されたのだった。イングルヌックとは何ぞや、調べるにも資料の乏しい時代だった。今は何と便利なことだろう。前田邸の1階は来客に接する、或いはもてなすためのオフィシャルな空間。各部屋やコーナーに相応しい暖炉が設置されてはいるが、実はセントラルヒーティング方式なので、それらはお飾り、というのはいかが。↓こちらは温風吹き出し口?どことなく北欧の住宅で見かけるような。ハマスホイの絵とか。一つの暖炉で隣接する部屋も暖める、例の方式に用いるものに似ている。↓吹き抜けのホールはかなり寒かったようで、このイングルヌックは温熱が留まり愛されたとか。本物の火が見えたらどんなにかよかっただろうに。2階はプライベートと使用人の空間。女中も金沢辺りのしかるべく筋の娘さんらが、行儀作法の学びを兼ねて集められた。かつての江戸屋敷スタイルが踏襲されたのだろう。地階は厨房や機械室3階にはランドリーが。長女の酒井美意子さんら子ども室も当時に近い姿で見られるが、当初の用意は美意子さんだけだった。図らずも子福が得られ、談話室とか図書室など別用途の部屋が順次子ども室に変えられたという。このお屋敷で最も麗しいのが夫人室見た瞬間に好みのレベルを超えて、その優雅さにため息がもれる。当時の家具は殆ど残ってないらしいが、この部屋の壁紙、カーペットは当時を再現した。お屋敷の中で最上の場所に最上の意匠と品質を、建築評議会の最中に侯爵が指示したのかしら。この部屋の主人は侯爵後妻の酒井菊子さま。久邇宮朝融王婚約破棄事件の方故に、侯爵がいかにも丁重にお迎えしたのであろうか。或いは加賀百万石の名にし負わば。酒井美意子さんの思い出には、母はベッドに入るまで靴を脱がないで暮らした、とあるそうな。うむ。庶民とはチガウ。菊子さま、侯爵より長身であらせられる。それにヒールともなると、いかにも女主人。寄木の床と絨毯に段差のない工夫。これなど、当初からオーダーメード以外の選択肢は無いという発想↓夫人室は衣裳部屋や談話室も伴ったという、侯爵も及ばない待遇。その談話室で妻子は多く過ごし、朝の食事も摂った。↓夫人室からダイレクトにつながった主寝室。珍しく家具がかなり残っている。寝台は英国だかフランスだかで作らせた。枕元に懐刀を置くためのニッチが設けられている。うむ。庶民とチガウ。↓こちらは侯爵の書斎だったか、親しい人を招く部屋だったか。夫人室隣接。簡素ながらも風格のあるデザイン。執事は近い部屋に控える。うむ。庶民とはチガウ。一切の和モード無し、純然たる洋館は、しかし日本式住宅、和館と長い廊下で繋がっている。渡り廊下の建築も洋から和へ、違和感なく繋げるため仕上げで変化させる工夫が洋館窓から覗ける。↓大広間のクリスタルカットされた窓ガラスは、広い庭からの陽光を虹色に部屋に落とす。建築にあたり評議会が持たれ、当時の最高水準のチームが内外の美と機能を入念に研究し、打合せを重ね、竹中工務店によって建造された。設計は学士会館やライト後の帝国ホテル設計の高橋貞太郎前田家が建て、資本家が買い、進駐軍に接収され、やがて目黒区の公共財産になった。建物は時代時代の権力や財力へ振れながら、今現在はコモンへと移った。百年に満たない歳月でさえ、生者必滅会者常離だ。↓分かり辛いが、大理石甲板に閉じ込められ、スライスされたアンモナイトが上中に。屋敷で繰り広げられた晩餐会や夜会に現れては消える登場者を見ていたのは、このアンモナイトかも↓日本家屋の玄関アプローチ。昭和初めの職人たちはこちら側の普請では、何となし呼吸がしやすく手業した、ような印象をもつ。和館内部も次回はガイドツアーで見学したい。↓駒場公園入り口も重厚感がある。ここも加賀藩藩主、前田侯爵の敷地だった。文学館までは寄れなかったが、そこは当時、温室と厩舎があったそうな。まさにカントリーハウスかマナハウスだ。当主は46歳で、太平洋戦争時に南洋に向かう飛行機の事故で亡くなった。これを戦死とするか事故死とするかで残された遺族の立場が大きく異なる。事故死を主張したのは東條英機だった。陸軍大学校首席卒の前田利為と東條英機は同期とはいえ、東條は4年も遅れて卒業した挙句、何の成行か陸軍大将のまま総理大臣になった。東條は嫉妬深い性格で、人事権を得るや対象人物を隔離、危険な任務に当たらせたという。家柄も知性も品位も敵わない利為にも勝手に恨みを募らせた。男どもの嫉妬恐るべし。政治家を希望していたという前田利為が東條と入れ替わっていたならば、日本は異なる敗戦と戦後だったろう。悪貨良貨を駆逐する悪いものが悪いものを呼んでやがて国破れ。今この時どこかで生じているバオバブの弊害を、目を凝らして摘み取らねばならない。星の王子さまのように。