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カテゴリ:昔話
なんか微妙に需要があったので続編を。 とはいえ、縦断の全行程を記事にすると真面目に本が一冊書けてしまうので、大半の期間を過ごした沖縄編をメインにしようと思います。 結局、二ヶ月半くらいかな?テント積んで放浪してたわけですが、沖縄だけで軽く1か月以上は滞在してたので。 ちなみに、そもそもこの旅は最初から日本を縦断するつもりがあったわけじゃなく、前記事見ればわかる通り、当初は「とりあえず旅に出よう」という思い付きで走り出しただけです。 滞在中の沖縄で「せっかく南の端まで来たんだし北の果ても目指してみるか」という軽い考えで動き出すも、北国をバイクで走るのは春まで待たなきゃならんので、一度地元で冬を越してから第二次放浪で北を攻略しております。 まぁ、第一次でも途中まで行ってたんですけどね、北国の冬をテントで野営するのはキャンプではなく普通に遭難死と呼ぶので旅費がかかるという理由で引き返してるんですが。 前回は名古屋から沖縄行きフェリーに乗るところまで書きましたが、書きながら記憶を思い返して懐かしいなーと思いつつ、今もあの航路あるのかな?と調べようとしたけど当時乗ったフェリーの名前を思い出せない。 なんせ21歳か22歳の頃の記憶なので20年前だ、無理もない。 ただ、断片的なヒントと言うか記憶の欠片はある。 ・なんか「旧日本海軍の軍艦と同じ船名」というのは記憶にある。 ・2等客室なのに、やたら他のフェリーより居住性が良かった。 ・そういえば年内で廃線だか倒産だか買収だかという噂を船内の他の客から聞いた ・沖縄が終点じゃなく台湾まで行く便もあったような? これらの情報を当時は存在しなかったGoogle先生を駆使して調べたら、やっぱりあのフェリー会社は倒産?してたそうだ。 フェリーの名前が「飛龍21」と言うのを見て「それだ!」と。 ミッドウェイ海戦で沈んだ空母の名前をつけるとか、そういうとこだぞ?倒産の原因は(多分違う) まぁオレは倒産の原因は船内映画のセンスの悪さだと思いますけど。 でも、まぁ当時人気の映画だからと安易にタイタニックとか流さなくて良かったよ。 オレは海なし県の埼玉出身なので、海を見ると興奮してしまうDNAを持ってるのですが、何故か泳ぎは得意なんです。なので初めてのフェリーでも「船沈んでも陸地まで泳ぐくらいは余裕だぜ」とか、意味もなく不吉な妄想と根拠のない自信は持ってました。 でもね、夜中のフェリーのデッキから真っ暗な海を眺めてて思いました。 「こんな海で落水したら金メダリストの岩崎恭子だろうがジェフ・ラウズだろうが溺死だな」と。 よく「遭難捜索は最初の2~3日が大事だ」みたいな事を言うけど、あんな暗闇の中で陸も見えない状態で落水したらオレは小一時間で生きる事を諦めそうである。 結構な速度で動いてるし風も強い。 某映画で船首に立って両手広げてた男女はオレに言わせれば正気の沙汰ではない。 とりあえずそんなわけで船の中で丸2日を過ごし、那覇新港に到着の朝です。 船の中でサンドイッチで軽めの朝食を済ませ、着替えも済ませ車庫でストレッチなんぞをしながら「どこいこうかなー」なんて考えてたら到着のアナウンスとともに車庫が開き、バイクを出せるとのこと。 興奮抑えきれず愛車に跨り元気よくフェリーから発射されるオレ。 「来たぜ沖縄!よろしく沖縄……ってか暑い!!!」 こちとらライダースのジャケットに革パン、革ブーツと言うナリで飛び出したが、上陸して5秒で暑い。 本日の最高気温25℃とかまじかオマエ、12月やぞ? 2日前まで名古屋のふ頭で寒空の下で震えてたのがウソのようだ。 上陸して一番最初にブッたまげたのは、ガソリンの価格の安さ。 当時、関東ではレギュラーがリッター90円前半くらいの時代だった。 ハイオクでも100円するかしないか。 そんな時代、那覇新港に到着して最初のスタンドで「82円」の看板を見た時、思わず急ブレーキである。 ところがそれに飽き足らず、沖縄本島を南下していくとどんどん安くなり、俺が見た最安値は64円である。何だこの島。 とりあえず上陸して真っ先に思い立ったのは「名物ソーキそば食べよう」でして、それっぽい食堂にバイク停めて入る。 そこでオレは「ソーキそば定食」みたいなのを頼んだ。 ソーキそば、御飯、御新香、煮物の小鉢、食後のコーヒー。 これで700円である。 オレは貨幣価値のおかしい国に来てしまったのか? ガソリンと言いメシと言い物価おかしすぎだろ。 沖縄滞在中にソーキそばは数えきれないほど食ったけど、今はどうか知らないが当時は平均400円台で一杯食えた。 とりあえず初日は本島を南下してました。 道すがら、漆器屋さんみたいなのを見つけて興味半分で入ったら客が俺一人。 店員のおばちゃんが「内地の方?」と聞いてきた。 …まぁ、そりゃそうだ。 明らかに気候にマッチしてないライダーススタイルで所沢なんて見慣れないナンバーのリッターバイクで入って来たら地元人じゃない。 んで、このおばちゃんが人懐っこいのさ。 冷やかしで寄ったオレが「えぇ、観光でバイクで旅してます」と言ったら、お茶と茶菓子まで出してくれて観光案内までしてくれた。 そういえばソーキそば食った食堂のオヤジも、やたらと親切でフレンドリーに声かけて来たし、どうなんだろね?よそ者に優しい土地なんですかね。 初日、なんとなく南に走りながら慰霊碑みたいな場所の案内板を見つけてフラッと寄りました。 名前はうろ覚えですが「なんとかのの丘」みたいな。 先の大戦で沖縄地上戦の指揮官だった牛島満中将が自決した場所みたいな石碑があって、丘の上から見た海の景色が絶景でした。 とりあえず今日の野営地の候補となる海岸を探して百名ビーチという名前の浜の少し端の人目につかなそうな場所を選んでテントを設営。 何日かここを拠点にまずは沖縄南部を探索しようと決め、丁寧に砂浜を馴らし岩壁で風除けもできる位置を確保。 「良い時間だし砂浜から夕陽でも観ちゃおうかな!」と野郎が一人で無意味に雰囲気に酔い砂浜にどかっと胡坐かいて座ったりしてみたが、肝心のお日様見えず。 …そりゃそうだ。百名ビーチってのは沖縄南部の「東岸」である。 太陽ってのは普通は西に沈むもんだ。 夕日は諦めて明日の日の出に期待しよう。 とりあえず小型コンロで湯を沸かしてインスタントラーメンを茹で早めの夕食。 砂浜で星を眺めながら携帯ラジオで地元のラジオを聴きながら今さらながら思う。 「…なんかノリと勢いで気付いたら沖縄にいたな。」 人間は普段と違う環境だと普段考えないような事を色々と考える。 翌朝、かなり日も上がってきたころに目が覚めた。 というか昨夜は海音が気になって寝つくまでに時間がかかったので眠りが浅い。まぁこの後の野営生活で徐々に慣れていくんだけど。 テントから出て海を眺めてたら砂浜に地元のお婆ちゃん集団みたいなのが3人で何やら荷物を提げて歩いてきて、おもむろにレジャーシートを広げはじめた。 どうやら天気も良いし外で昼飯でも皆で食べよう、みたいな事なんだろう。 服装どう見ても普段着なので観光客じゃない。 少し離れた所に俺のテント。 その前でタバコ吸いながらボーっとしてる見慣れない背のデカい若者。 ……どう贔屓目に見ても不審者だろう。 遠目に俺を視認した婆様、テクテクとオレの方に歩いてきた。 (あ、これ怒られるのかな?まぁ勝手にキャンプしてるし怒られたら立ち去ろう) 近づいてくる婆様を横目に謝る準備をしてたオレに向けて、その婆様の放った一言。 「お兄さん、こっち来て一緒にテンプラ食べるかい?」 …怒られるどころか一緒にメシ食おうというお誘いだった。 「え?いいんすか?」 全く遠慮が無いオレ。そのまま婆様たちの所まで招かれ昼飯を奢ってもらう。 しかし、テンプラと聞いていたけど婆様が出したタッパの中に入ってたのは、俺にはどう見ても「さつま揚げ」にしか見えなかった。 俺の中で「テンプラ」ってのは小麦粉を水で溶いて衣として揚げたモノを指す。これはどう見てもさつま揚げだ。 …当時まだ21やそこらの若造だったオレ、さつま揚げの呼び方が地方によって違う事を知らなかった。 しかしそこは空気の読めるオレ。 「いや、めっちゃ美味いっすね。このテンプラ」 いや、呼び名はともかく、さつま揚げ自体はメチャクチャ美味かった。 一緒に食べながら婆様たちに色々な話を聞き、色々と聞かれた。 「お兄さんどこから来たの?」 「あ、埼玉です」 「さいたまってと…どこだ?」 「まぁ東京に張り付いてる子分みたいなもんだと思ってもらえばいいです」 婆B「川崎大師様があるとこだな?」 「それは川崎なんで神奈川県ですね。」 「神奈川ってあれか?横浜あるとこ」 「そう、当たり!」 「へー、横浜から来たの?」 「いや、ボクは埼玉からです」 志村のひとみ婆さんコントじゃねーんだから。 まぁ沖縄の人が埼玉の位置知らんのも無理はない。関東人だって四国の4県の位置知らん奴とかいるし、TBSだって熊本と宮崎間違えてたし。 喋りながらひたすら遠慮なくさつま揚げをバクバク食べてたオレを見て、こいつ勧めりゃ何でも食うと思われたのか次から次へとお稲荷さんだの御新香だの勧められ、気付けばキャンプ生活なのに満腹になる。 午後は観光する気だったのが、すっかり婆様集団に気に入られ長居をし、ひたすら喋り倒してた。 去り際に一応聞いた。 「あの、オレ宿ないので数日ここでテント張って寝泊まりする気なんですけど、平気ですかね?」 「平気でね?どうせ今時期だーれも来ないし」 いや、真冬の浜で誰も来ないと思ってたら貴女達が来たから(笑) 「あ~。でも明日は天気荒れるから浜で寝るのはやめた方がいいかもなぁ」 そういわれ、その日の夜にラジオで天気を聞いたら、確かに翌日は午後から雨で夜は荒れるとのニュース。 「これはどこかで宿取るか。まぁ2日もシャワー浴びてないし丁度いい」と、近場で宿を探す。 那覇の方にユースホステルを見つけたので電話したら部屋はいくらでも空いてるとのこと。 1泊素泊まり3千円くらいだったかな。別料金払えば朝食も出るとか。 当時の沖縄にはオレが調べただけで3~4か所はユースホステルがあった。 一番安い所で一泊素泊まり1500円だったな。しかもシャワー使わせてもらえて。 安いのでしばらくそこ使ってたな。何となく今もまだあるのか調べてみたら現在は閉館してるようだ。 そんなこんなで翌日の午後、雨降り始める前に宿につきチェックインして部屋へ。 4人部屋だったかな?ベッドの数の記憶が曖昧だが、その日の同室者がオレ含めて3人だったのは覚えてる。 オレより少し年上で、仕事は池袋で駅員をしてるという男性。 そしてアメリカのネバダだったかテキサスだったか忘れたけど、そこからヒッチハイクでロスまで行き飛行機で沖縄の米軍基地にいる友人に会いに来たというアメリカ人の男性。 アメリカ人は当然ながら日本語は話せないのだが、もう一人の池袋駅員が仕事柄か少しだけ英語が話せるらしく通訳をしてくれた。 俺の背が自分より大きいせいか「何かスポーツやってたのか?」みたいな事をそのアメリカ人に聞かれて「バレーボールやってた」と答えた。 それを通訳する駅員、その流れで「キミは?」と聞かれ「えーと、フットボール」と答えた駅員の彼。 それを聞いてオレは思った。 「…アメリカ人にとってフットボールはサッカーじゃなくてアメフトだから多分勘違いされてると思うな」と。 その日の夜は、言葉も通じないのに駅員の中途半端な英語とオレのカタコト名詞と動詞連発の英語でそのアメリカ人と夜中まで色々話してた。 まぁ野郎3人の会話でオレ以外の二人は酒も入ってたから段々とトークもシモの方になってくる。 女性の好みの話とか。 アメリカ人「キミは女性の胸とお尻どっちが好きなんだ?」 駅員「えーとね…」 オレ「あ、訳さなくても大体わかります。そうだなーオレはね…」 アメリカ人「オレはバストだ」 オレ「人の話聞いてねーじゃん!」 アメリカ人「日本人の~(ヒアリング能力不足により聞き取れず)」 駅員「日本人の黒髪はセクシーだってさ」 オレ「今の若い子みんな染めちゃうけどね」 アメリカ人「これオレの彼女(写真出し)」 駅員&オレ「へー…ってなんで下着姿なんだよ!(笑)」 撮らせる方もすげーな。 そのアメリカ人、友人には会うついでに日本を観光しようとアメリカで買ったであろう日本の観光ガイドブックを見せて来て「ここ行こうと思う」と彼が指さしたページの写真だが、パッと見は俺もその駅員もどこだかわからない。 まぁ街並みとイラストの地図からして京都ではありそうだけど。 今ならオレは分かる。あれは多分、京都の先斗町だ。でも当時は俺もその駅員もわからなかった。 翌日も雨で外に出れなくて、夜は近くの居酒屋みたいな食堂みたいな所で地元料理食いまして、ゴーヤ茶とか珍しいモン飲んでました。 名前から想像すると青汁みたいに苦そうなんだけど、飲んでみたらスッキリしてて美味かったな。ゴーヤチャンプルーも思うほど苦くなくて、程よい苦みでご飯が進む感じで美味かった。 結局、天気が回復してからはまた前回の浜辺に戻り野営を再開。まぁ2~3日に一度はユースホステル撮って洗濯と風呂を使ってたりしましたけど。 その間に色々と沖縄本島を見て回りました。 首里城とかも行ったし。 首里城を見ると「あぁ、沖縄ってやっぱ昔は琉球王国って名の別の国だったんだな」と痛感しますな。 建築様式とか日本と違うし。 沖縄と言うか琉球王国の歴史については俺も当時ほとんど知らず、せいぜい尚寧王の名前くらいは聞いたことあるとか、中国や日本や東南アジアとの中継貿易で栄えた島だったくらいの知識しかなかったけど、現地で色々見るうちに独自の文化圏だったんだなぁと勉強になった。 ちょっとマニアックな所では沖縄水産高校も見に行きました。 俺ら世代で高校野球好きなら誰もが知る甲子園常連校。 現在だと当時ほどの強さは無いけど、沖縄代表は昔から興南、沖縄尚学、沖水あたりが甲子園で毎回健闘するも、大体はPLとか天理に敗れて優勝逃すというパターンが定着してた。 見た感じ、普通の公立高校でしたね。名門私学みたいなバカでかい専用球場とかあるのかと思ってたけど。 沖縄本島を何日間か旅して見て回り、色々な店の人とか地元の人とかと話してる中で思ったのは、やっぱ米軍基地ってもう沖縄の地場産業なんだなぁと。 基地周辺の飲食街なんか客の半分以上が米兵なんて店も多いし、しかも彼らは給料日が月に2度あるらしく、衣食住完備だから給料出ると盛大に金使って飲み食いしたり上客だと。 しかも基地の門限なのか夜も8時9時くらいにはみんな基地に帰るから良いヤツばかりだと。 当時まだ若かったオレは、何となく先入観で沖縄の人は米兵嫌いなんだろうと思い込んでたけど、少なくとも俺が滞在中に米兵に敵意向けてる県民は見たことが無い。 まぁ内心複雑な葛藤はあるのかもしれないけど。 沖縄で唯一誤算だったのは、キャンプ場みたいな施設が無かったこと。 当時俺が知る限りでは本島で1ヵ所あったかな?くらい。 なので、無人の浜とかを見つけては無断でテント張るのだけど、公衆トイレが無いような場所だと意外と不便だった。 携帯電話は数日に1度のユースホステル利用時に充電するので、音信不通の期間が出てくる。 ウソかホントか放浪から帰還した時、友人に「お前死んだって噂だったぞ」みたいな事も言われたな。 次回は「沖縄離島居候編」です。
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