千々石ミゲルと釜蓋城
千々石ミゲル(弥解瑠) 1569(永禄12)年頃~1632年? 島原半島にあった釜蓋城主千々石直員の嫡男で、キリシタン大名有馬晴信の従兄、大村純忠の甥にあたる。天正年間にローマに派遣された天正遣欧使節の一人で、有馬・大村家の正使としてローマ法王に謁見した。豊臣秀吉の禁教令の後の1590(天正18)年に長崎に帰港し、イエズス会に入会するも、後に脱会し、大村喜前に仕えた。名を清左衛門と改め妻を娶り、7?人の子に恵まれた。病弱で関節リュウマチに苦しんだとされるが、資料が少なく、人生の大半が謎に包まれている。平成16年に夫妻の墓石が、諫早市多良見町(大村領伊木刀)で発見された。イエズス会ペトロ・モレホン神父「純日本殉教録」には、「異教徒にもならなかったし、また決して教会を迫害もしなかった。むしろキリシタンやヨーロッパの事物を大変好意的に話した」と記されている。天正遣欧使節の4人、伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルは、帰国後、それぞれ別の人生を歩んでいる。まさに人生いろいろである。釜蓋城は1568年千々石淡路守により築城され、淡路守討ち死に後、有馬晴純が三男直員に千々石氏を継がせた。現在は城跡には天守閣を模した展望所が建てられており、城下が一望できる。有馬領の西の防衛拠点として龍造寺氏との攻防戦の舞台となり、1577(天正5)年には龍造寺勢に攻められ、城番の千々石大和守澄籌は、わずか百人足らずの兵と防戦に努めたが落城、 老臣木戸万九郎と共に自刃したという。