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弁護士YA日記

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〒420-0837
静岡市葵区日出町5-3
TEL 054-269-4590
FAX 054-269-4591
http://hinodecho-law.jp/
日出町法律事務所
2019年6月より1年間、日本弁護士連合会客員研究員としてイリノイ大学アーバナシャンペーン校に留学後、弁護士業務を再開しました。
弁護士葦名ゆき(あしな・ゆき)
2013.04.26
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カテゴリ:東日本大震災
小高訪問から1ヶ月が経過してしまった。
何から書き出せばいいのかわからない。
私が大好きだった小さいけれど、空が高くて澄んだ空気に満ちていたのどかで美しかった町は、変わり果てていた。思っていた以上に、最早、小高は昔の小高ではなかった。

現地では、泣かなかった。崩れ落ちもしなかった。自分でも驚くほど冷静だった。ただただ、目で耳で心で全身で、目の前の出来事を吸収しよう、それだけを考えていた。

今も私の心にあの日見てきた小高が焼き付いている。
心に小高が住んでいると言った方が正確な位だ。
今、この瞬間にも、私は、自分の心に住んでいる小高に行ける。
不思議なことに、現地では身体も心も崩れなかったのに、心の中に住む小高に行く時は、悲しくて涙が止まらなくなる。

この悲しみを言葉にしないと、私は、この悲しみから抜け出せそうにない。
私の心に住んでしまった小高を、何とか言葉にしてみたい。
言葉にしたからといって誰も救われない。でも、言葉にしないと、なかったことになる。
それだけは嫌だ、絶対に嫌だ。

1年前に警戒区域が解除された小高の様子については、事前に沢山の情報を得ていた。3.11から時が止まっているような地震、津波の傷跡がそのまま残る街並、海岸の風景、手入れされていない荒れ果てた家屋と庭、歩く人も行き交う車もない街。

目に映った風景は、事前に得ていた情報そのままだった。
想定内だ、分かっていたことだ、むしろ事前に聞いていたより瓦礫や倒壊家屋は片付けられているじゃないか・・・目の前の風景を心にしみ込ませながら、自分にそう言い聞かせながら、車窓に張り付いていた。

しかし、小高駅前で、車から降り立った時に、想定外の衝撃を受けた。
ここには、音がない。生活音がない。
風のざわめきが、小鳥のさえずりが、はっきりと聞こえる。まるで森か草原にいるかのように。

でも、ここは、森でも草原でもない。
その証拠に遠くで青信号が光っている、一台も車が通らない道路を規則正しく照らしている。
駅前の駐輪場には、何十台もの自転車が置いたままになっており、通りには、店舗や住居が立ち並んでいる。そう、ここは、市街地だ、市街地の筈だ。

市街地なのに人がいない。歩いている人がいないだけではない、建ち並ぶ建物の中にも人はいない。通りを行き交う車もない。信号に従って停車する車もない。エンジン音もブレーキ音もない。
小高は、元々、過疎が進んだ町だった。私が知っている五年前の小高駅前も、決して賑やかではなかったし、シャッターが降りている店も少なくなかった。
でも、この静けさは、あり得ない。いわゆるシャッター街とは異質の静けさだ。

通りに足を踏み出すと、冷たい風が、首筋を吹き抜けていく。そう、あの日は、温暖な浜通りに雪が舞うほど厳しい寒さだった。コートの衿をかき寄せながら、でも、顔をあげて、前を見据えて、風に逆らうように歩いていくと、自分の靴音がコツコツと耳に響いている。
足を止めて、写真を撮った。

この時、撮影した写真がこちら。
ただ、写真では、この不気味な域に達する静けさは伝わらないと思う。私は事前にもっと視覚に訴える酷い写真も見ていたが、「音」までは、想像が及んでいなかった。

小高駅前

写真を撮りながら、不意に凄まじい孤独感を感じた。
この訪問の際は、20名弱の弁護士が一緒だったのに、まるでこの世に一人で取り残されたような気がした。周囲が全部真っ暗闇で、自分の周りにだけ仄かな灯りがあって、足下だけが見える。何でそう感じたのか、自分でも分からない。
とても寂しかった。そして、とても怖かった。

出発を告げる声に我に返り、車に乗り込む。

車に戻ると、通りのあちこちに巨大なごみ袋が置いてあるのが目に付く。通常のゴミ袋が10個以上入りそうな大きさで、袋の口は紐で縛ってある。一年前から、日中だけは家に入れるようになった住民が、家の片付けをしたはいいが、ゴミの回収がされていないため、やむなく家の前に、置いているのだという。
1年間入れなかった我が家を歯を食いしばって片付けたところで、ゴミを視界から消すことができず、目の前の庭先に置くしかないのでは、片付けた気分にはとてもなれないだろう。
この巨大なゴミ袋にゴミを詰める時、どんなに惨めな情けない気持ちになっただろう。ここに詰まっているのはゴミではない。ゴミの形をした極限まで踏みにじられた人間の尊厳だ。

どの店も閉まっている。
空いていたのは、床屋、郵便局、地元の信用金庫位だったと思う。
八百屋さん、お肉屋さん、パン屋さん、お菓子屋さん、お花屋さん、金物屋さん、雑貨屋さん、クリーニング屋さん・・・個人商店は、軒並み閉まっている。
大きなスーパーも同様だ、コンビニエンスストアも閉まっている。

一体、どこで食料を調達すれば良いのか。
どこで、日用品を買えばいいのか。
帰ったところで、このレベルで壁にぶち当たる。
宿泊などできるはずがない、日中の数時間ですら、「暮らす」ことがおよそイメージできないのだ。

インフラ(インフラストラクチャーの略、日本語では「社会基盤」といった意味で使う)がまったく復活していない、という情報は事前に得ていた。
ただ、私は、インフラがないという情報を、抽象的にしか理解していなかったように思う。病院がない、電気、ガスがつながらない、漠然とイメージしていたのはこんな事態だった。

小高の現状は、私の抽象的な想像をはるかに超えていた。
何がないかを特定することすらできない。生活に必要なすべてがないのだから。
そして、何より、人がいない。子どもを見かけないというレベルではない。大人もお年寄りもいない。誰もいない。
2時間弱の小高滞在中、私が見かけた「歩いている人」は、犬の散歩をしている女性だけだった。

小高駅の次に降り立った場所は、小高の人々の自慢でもあった農園だった。珍しい花や樹木が一年中咲き乱れ、庭先では美味しいアイスクリームが食べられる美しい場所は、最早幽霊屋敷のようだった。
ここまで枯れ果てた樹木や花を私は今まで見たことがない。
何も言えなかった。ただ、黙って、シャッターを押した。

枯れ果てた草花

海沿いの道を通りながら帰路へ。
未だに、壊れた車が放置されている広大な空き地。
時が止まっている。3.11から2年も経過しているとは思えない風景が広がり、自分の時間感覚がゆがんでくる。
同じ日本にこんな場所があるのか。一体、今はいつなのか。
頭がおかしくなりそうだった。

帰りの車の中は、ひたすら重苦しい沈黙に包まれた。
運転をしてくれた相馬ひまわり三代目所長の米村俊彦弁護士がぽつりと言う。
「小高に行くと心がずっしり重くなります。何度行っても。」
「本当に」と何とか返事をしたけれど、もうそれ以上、何を話せば良いかわからなかった。

午後からは、相馬ひまわり基金法律事務所の引継ぎ式、南相馬ひまわり基金法律事務所の開所式があった。思いがけず、相馬時代に大変親しくお付き合いさせて頂いていた司法書士のS先生にお会いする。
S先生は、小高に自宅兼事務所を構えていらした。
「S先生。ご無沙汰しておりました。お目にかかれてとても嬉しいです。でも、S先生、私、先程、小高を見て参りました。」
そこまで言うのがやっとで、後は、言葉にならない。
S先生は、「そうでしたか。そうでしたか。随分つらい思いをされたでしょう」と変わらぬ柔和な笑顔で私の手を握って下さった。
そう、S先生は、いつもこうやって、依頼者にも相談者にも寄り添うように接していらした。仏様のようなS先生が、何故、こんな境遇に置かれなければならないのだろうか。

引継ぎ式でお隣の席になったS先生に、ご自宅の様子をうかがう。
S先生は「もう、随分、自宅は見ていないのですよ。私自身はそれでも見に行っている方ですが、妻子は、もう二度と家は見たくないと言っています。警戒区域が解除されてすぐに行ったのですが、うちの娘は、家の中を走り回るネズミを見てしまったのです。それ以来、一度も行かなくなりました」と仰った。
「そうでしたか」としかお返事できない。お年頃のお嬢さんにとって、どれほど辛い光景だったか、想像するだけで、心がずきずきとえぐられたように痛む。

1年前まで警戒区域としてまったく入れなかった小高区は、1年前に区域再編され、現在、大部分が、居住制限区域、避難指示解除準備区域となっている(わずかながら帰還困難区域もある)。
今回の視察前から、区域再編は一体何のためなのだろうと疑問を持っていたが、小高を視察した今となっては、激しい怒りで一杯だ。

区域再編は、線量を基準としている。しかし、人は、線量のみで、どこに住むかを判断するわけではない。線量が高かろうが低かろうが、1年放置した街は、壊滅的に破壊されているのだ。今更線量が低いから戻れますよ、と言われても、何もかも失っている街には人が住めるわけないじゃないか。具体的な暮らしが、生活がまったく見えないじゃないか。
数時間も過ごせない場所にどうして人が帰ることができるのか。

3年後の帰還を見込む居住制限区域?1年後の帰還を目指す避難指示解除準備区域?
非現実的すぎる。警戒区域が解除されて1年経ってもこの有様なのに、もう1年経てば何か変わるのか?

「入れるようになりましたよ」「日中いていいですよ」とかけ声だけかければ、故郷懐かしさに、自然に人が戻り、店舗が戻り、コミュニティが元に戻るとでも思っているのか。
住民を馬鹿にするにも程がある。

しかも、失われた町は、小高だけではない。
浪江、富岡、双葉、広野・・・小高以南に、小高同様の荒廃した町が広がっている。
一体どこから手をつけたらいいのだろう。この1ヶ月、小高訪問記を書かなければとずっと思っていたけれど、本当に何から書き始めたらいいのかもわからないくらい、呆然としていた。
また、心の中の小高を訪問しては、ただただ哀しんでいた。

でも、ひとつだけ、私は決めました。
誰になんと言われようと、発信しようと。
忘却と無関心と何が何でも闘い続けようと。

私の拙い文章では、小高の惨状は伝えきれないと思います。
それでも、どうかどうか、皆様の心にも小高を浮かべてください。
忘れないで。原発事故は、終わっていない。何も終わっていない。現在進行形で何十万人もの人を苦しめているのです。





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Last updated  2013.04.26 21:11:11
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