音楽と演劇の躍動、これぞジングシュピール〜日生劇場「後宮からの逃走」
(しばらく下書きに眠っていて、ちょっと遅くなりましたが、先月の日生劇場「後宮からの逃走」の感想をアップします。) 先月の昭和音大の「コジ・ファン・トウッテ」に続いて、今月もいくつか、高水準の国内制作オペラに出会うことができました。 そのひとつが、日生劇場の制作による「後宮からの逃走」です。 1782年に初演された「後宮からの逃走」は、モーツアルトがウィーンに移って最初の大作といえるオペラ。「魔笛」「フィガロの結婚」「ドンジョヴァンニ」「コジファントウッテ」とならんで、モーツアルトの「5大オペラ」と呼ばれることもしばしばですが、上演の機会にはあまり恵まれません。最近では、「後宮」のちょっと前の「イドメネオ」のほうが、上演されることが多いような気もします。 「後宮」は、ある意味、ちょっと異色な?オペラかもしれません。これはドイツ語による作品で、せりふで進行する「ジングシュピール」(歌芝居)の形式なのですが、モーツァルトのジングシュピールといえばなんといっても「魔笛」が有名です。ウィーンの庶民向けの劇場のために書かれた「魔笛」は、いってみれば当時のミュージカル、親しみやすい音楽が満載ですが、「後宮」はジングシュピールといっても、宮廷劇場での上演のために書かれたもの。皇帝ヨーゼフ2世が、それまでイタリア・オペラ中心だった宮廷劇場に新風を吹き込もうとした試みの一環だったのですが、このドイツ路線はあまり浸透せず、宮廷劇場では間もなく「フィガロ」に代表されるイタリア語オペラが再び主流になります。なので、後世から振り返ってみると、宮廷の、伝統からみればイレギュラーな、ドイツ趣味の落とし子的な作品といえるかもしれません。 宮廷劇場のための作品ですから、「後宮」はそれは「魔笛」とは違います。もっと堂々としているし、オペラティックだし(初演歌手だって「魔笛」より有名メンバーなわけで)、なんというか、「立派」な作品なのです。ジングシュピール=歌芝居、というより、イタリア語の宮廷オペラである「オペラ・セリア」のような雰囲気。繰り返しが多かったり、伝統的なイタリア・オペラの流れを感じないでもありません。とはいえ、父から独立し、ウィーンで前途洋々な活動を始め、結婚目前だった(オペラ初演のすぐ後に、オペラのヒロインと同じ名前の「コンスタンツェ」と結婚)モーツアルトが「全力で」取り組んだという気概がみなぎっていると感じます。ヒロインと花嫁の名前が一緒だったのは偶然なようですが、そんな偶然も、モーツァルトのやる気に火をつけたことでしょう。ヒロインのコンスタンツェが歌う、オペラ・セリア的な大アリア「あらゆる拷問が」をはじめ、前向きのストレートな情熱にあふれた音楽が並んでいます。 まっすぐすぎるせいか伝統的なせいか、どうもこれまでは、繰り返しですが「オペラ・セリア」風の印象から抜け切れませんでした。手元にある数枚の映像から得た印象もそうだったし(ベームが振って、グルベローヴァがコンスタンツェを歌ったバイエルン国立歌劇場のものなど)、2度ばかり体験した国内での公演でも、正直、一本調子な感じがしないでもなかった。初演を聴いたヨーゼフ2世が「音が多すぎる」と言ったことは有名ですが、たしかに、わりとたわいのない物語に比べて、「音楽」がまさりすぎているような気もしていたのです。 けれど、今回、はじめて腑に落ちました。これは文字通り「ジングシュピール」なのだ、音楽を主体にした「お芝居」なのだと。 最大の理由は、田尾下哲の演出にあると思います。舞台は、彼の師であるミヒャエル・ハンペのモーツアルト・オペラを思わせる、美しく伝統的なものですが、2人の乗る山車のミニチュアをささげ持った従者たちが客席から現れるパントマイムで始まるコンスタンツェとセリムの登場シーン、コンスタンツェがセリムにふと愛情のようなものを見せたり(キスしてしまう)、オスミンの「兄弟」が宴会シーンにがやがやと現れたりと、はっと目を引く、またはユーモラスな仕掛けがあちこちに盛り込まれていたのです。歌はドイツ語、セリフは日本語(台本は田尾下自身)と使い分けたのもわかりやすかった(このようなやり方には賛否両論ありますが、私は肯定的です)。結果、立派な「音楽」だけに圧倒されることがなく、お芝居の部分も十分に味わうことができたのです。 お芝居の部分で大きくものを言ったのは、太守セリム(俳優の宍戸開)の、せりふも含めての存在感の大きさです。プログラムに、アラブ文学者の岡真理氏が、イスラムの「寛容さ」についてのエッセイを寄稿されていましたが、それもとても参考になりました。岡氏によると、イスラムの法では、(キリスト教とは違って)異教徒も共存できるし、「目には目を、歯には歯を」の「同害報復」法ではあるものの、被害者が加害者を「赦す」ことはできるという。なので、セリムが、にくい仇の息子であるベルモンテを赦す大詰めは、イスラム(に改宗した)セリムにとっては大いにあり得ることなのです。 モーツアルトの「赦し」といえば、「フィガロの結婚」大詰めでの、伯爵夫人が伯爵を赦すシーンが有名です。それまでどたばたしていた音楽は、「赦し」の瞬間に劇的に安らぐ。あまりにも鮮烈な「音楽」による「赦し」。内田光子さんが、モーツァルトの音楽は「赦し」だとインタビューで言っていたのを読んだことがありますが、「フィガロ」の大詰めはその究極でしょう。ひるがえって「後宮」では、セリムの赦しのシーンはせりふで行われるので、「フィガロ」に比べるとどうしてもインパクトに欠けます。でも今回、宍戸開という芸達者を得たおかげで、かなり感動的なクライマックスになっていました。赦された若者達の喜びの歌も、生き生きと歌われていたのです(ちなみにオペラの原作では、ベルモンテは実はセリムの息子だったという設定で、なんの問題もないハッピーエンドなのですが、モーツァルトはベルモンテをセリムの仇の息子にすることで、結末を劇的に変えました)。 そう、この公演では、若手中心のソリストのレベルもかなり高いものでした。コンスタンツェ役の佐藤優子の技術の高さと品格、ベルモンテ役金山京介のテノールらしい甘い声とお坊ちゃんらしい素直な演技、ブロンデ役湯浅ももこの、役柄にふさわしいコケットリー。オスミン役加藤宏隆のユーモラスな憎々しさ。適材適所のキャスティングだったのではないでしょうか。 とはいえ音楽面での一番の立役者は、指揮の川瀬賢太郎です(オーケストラは読響)。音楽に無駄がなく、きびきびと小気味よく、そして何よりもエレガント!統率力、推進力がありながら、それを大仰に打ち出さず、自然な流れに乗っているように持って行く巧さ、品のよさが快い。音楽が鳴っている時の爽快感は、まさに希望を抱いてこれからの人生に臨もうとする若きモーツァルトの音楽だな、と思わせられるものでした。