沖縄の魂は燃え尽きない、首里城の大龍柱(ブログで振り返る首里城の旅)
沖縄に初めて訪問したのは今年5月のこと。初めて訪問した時にすっかり魅了されてしまいました。その際美ら海水族館旧海軍司令部壕に関する記事は書いたのですが首里城に関する記事は書いていなかったように思います。旧海軍司令部壕やひめゆりの塔を訪れて沖縄とは楽しさばかりではなく哀しみが満ちている島だということを身を以て感じました。そしてそこに深い愛情と美しさがあることも。是非旧海軍司令部壕(リンク)の記事を一読していただけたら幸いです。今回の首里城における出来事により沖縄の哀しみがまた一つ増えてしまいました。沖縄県の方々や日本中、果ては世界中の人々を悲しみに沈ませた痛ましい出来事を受けて、私もスマホに残っていたその当時の首里城の写真などを見返してもただただ辛い思いがするばかりでとても私のようなものが記事にするものではないと思っていました。しかしながら、先ほど私のスマホのホーム画面で表示された首里城に関する一つの記事を読んで私が撮影した写真を全て載せようという想いに至りました。それは一つの希望であります。それが首里城の龍柱 猛火のひびわれに耐えたという記事であります。全焼した首里城正殿の前で焼け残った大龍柱2体が会員制交流サイト(SNS)などで「奇跡の龍柱」「希望の龍柱」とたたえられ、「再建のシンボル」と期待の声が上がっている。関係者によると、火災でひび割れなどの被害が確認されており、詳しい調査が必要な状態という。 大龍柱は、正殿正面の石階段の両脇に向き合って立っている。歴史書「球陽」によると、初代は1508年の尚真王の時代に建造。中国・福建省の青石を用いて作られたと言い伝えがある。 火災や沖縄戦で3度破壊され、現在の大龍柱は4代目。正殿などとともに1992年に復元された。高さ3メートル超の石の彫刻。粒子が細かく密度が高い砂岩「ニービヌフニ」が材料に使われている。龍の造形自体が柱の役割を成しているのは琉球独自の造形文化。沖縄タイムス+より一部引用原文ママ。首里城を訪れた時に龍の特徴をした柱がとても印象に残っていてあの柱さえも燃えてしまったのだろうかと思っていたところ、残っていたということでついぞ、闇の中に光る希望を見た思いで今回記事を書かせていただきました。詳細にしたためて首里城の魅力を伝えることが私のできるせめてもの責務かと思います。それでは、2019年5月15日の首里城を皆様と共に見ていきたいと思います。沖縄に降り立ってすぐに向かったのが首里城でした。梅雨に差し掛かっていたのですが、その日は晴天(沖縄旅行中唯一)でした。沖縄らしいキラキラした光に守礼門の赤が映えます。守礼門は中国、明代の皇帝万歴帝からの詔勅にあった文言の「琉球は守礼の邦と称するに足りる」というくだりから来ています。当時から礼節を重んじ、来るものを歓迎するという風潮があったようです。首里城に入る際には誰しもがまずこの門をくぐります。日本のお城の門構えとは全く異なるいでたちです。中国からの使者が来た際には国王や高官らがこの門まで来て出迎えたといいます。沖縄と言えばハイビスカスが咲き乱れるイメージですが守礼門にもきちんと描かれています。↑守礼門の程近く、外向きに向いている裏口のような門がありますがこれは非常に重要な門です。かなりスルーされる方も多くてあまり立ち止まって見物される方はいなかったように思います。日本と中国に見られる木造建築様式を石造りで表現しておりその技術力の高さがうかがえます。しゃちほこや屋根部分などが分かりやすいです。園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)という石門です。簡単に言うと王家の礼拝所になります。琉球の祈りの形は石や木に宿るとされる集落の守り神などを祀っているうちに自然に産まれた「御嶽(うたき)」と呼ばれる聖地です。この石門及び向こうの森が「御嶽」となり、人々は御嶽に祈りを捧げていました。首里城の王家の心の拠り所がこの園比屋武御嶽石門だったのです。歓会門とは中国皇帝よりの使者などをその門の名の通り歓迎するという意味があります。こちらも先ほどの石門のように石のアーチが描かれその上に木造の櫓が載っています。石造りなため守礼門よりしっかりとしています。門の両側にはシーサーがいますね。この門は外角の最初の門でありいよいよ首里城へと足を踏み出していきます。この階段の先に続く門は立派な泉という意味の瑞泉門。この写真の右側には湧き水である「龍樋」があったことから瑞泉門という名がつけられました。これが「龍樋」です。かなりズームして撮ったので画質は悪いですが。この龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので約500年前のものというこちらもとても貴重なものです。小さくて読み辛いですが龍樋の湧き水は王宮の飲み水として使われたり中国の使者の滞在先にここから水を運んだといったことが書かれています。また、「龍樋」の素晴らしさを使者が讃えた7つの石碑があったことも。その7つの石碑の一つがこの「中山第一」泉の水量、水質は琉球第一といった意味。中国の使者もその水に惚れ込んで龍の彫刻を贈るほどであったのでさぞかし素晴らしい水が湧いていたのだと思います。瑞泉門をくぐります。その先にあるのは漏刻門です。「漏刻(ろうこく)」とは中国語で水時計という意味です。別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいうそうです。当時、身分の高い役人は駕籠に乗って首里城に登城しましたが高官でも王様に敬意を表しこの場所で駕籠を下りて登城したことからそう呼ばれているそうです。いよいよ首里城正殿が近付いてきたことが分かります。門の上の櫓に水槽を設置して水が漏れる量などで時間を計って太鼓などで合図していたそうです。水であったり時間であったり門の名前を紐解くと自然に密接した分かりやすく親しみ深い名前がついていたのが分かります。漏刻門の正面に置かれていたのが↑の日影台(にちえいだい)です。往時もこの場所に置かれ水時計の補助的な役割を担っていたそうです。ここから少し沖縄の街を眺めてみます。やはり門をくぐるたびに緩やかに坂道や階段になっているので美しい沖縄の街並みと遠くの海が見えるほどに上がってきました。日影台のほど近くにあったのが万国津梁の鐘です。本来は首里城正殿の前に掛けられていたそうです。万国津梁とは世界の架け橋という意味だそうです。海洋国家としてのプライドが刻まれたこの鐘を正殿の前に釣るして王宮ではその音色を刻み付けて鐘を打ち鳴らすようにして国王以下、情熱をもって仕事をしていたのだと思います。次は広福門です。↑当時の写真はかなり年季が入っていますね。この門の左右では役所や裁判所のような機能が置かれていたようです。広福門を入ったところで暑さと疲労により一時休憩することに。ここまでくるとあとは奉神門をくぐれば首里城正殿になります。奉神門が正面に見える休憩所でしばし休息をとることに。そこは以前は系図座・用物座という役所があったそうです。奉神門が見える休憩所(急系図座・用物座)現在はここが県警や消防の関係者が休憩する場所となっており一様に疲労の色が隠せないようです。参考・産経新聞11月4日記事 火災の首里城「奉神門」前、報道陣に公開かなり汗をかいたので沖縄限定のファンタドリンクが染みわたりました。首里城で汗を掻いて飲んだからこそ美味しかったのだと思います。首里城の正殿の前にある御庭(うなー)に入る最後の門がこの奉神門です。神を敬うという意味を持っています。↑向かって左側、つまり北側は「納殿」 向かって右側、つまり南側は「君誇」といいます。この奉神門もこの度の火災による影響を受けてしまったようです。先ほどの産経新聞の記事によれば屋根の一部は赤瓦が残っているものの上部は焼け落ち黒焦げた木組みがむき出しとなってしまっているようです。正殿、南殿、北殿は全焼してしまいましたがこのうち正殿と南殿の裏にある「寄満(ゆいんち)」と呼ばれる建物の耐火性収蔵庫に保管されていた1075点は焼失を免れたようです。朝日新聞11月3日記事・首里城、美術品1千点が消失免れる、一部は焼失の可能性あの大火の中でも古来の王朝時代の工芸品など1496点のうちの1075点が残っていたのですからこのニュースもまたこの状況下において大きな希望の一つであると言えます。奉神門をくぐります。初夏の晴天のもとにそびえたつ雄大な正殿です。この正殿を含めて主要7棟が大火により焼失しました。日本経済新聞11月1日記事・首里城、再建は長期化も 主要7棟が焼失ゆっくり近づいていきます。首里城の前の広い空間は「御庭(うなー)」といいいます。「御庭」は奉神門、正殿、南殿、北殿に囲まれています。ここは年間を通じて様々な儀式が執り行われた場所であります。御庭には敷き瓦が敷き詰められています。横断歩道のような色違いの列は諸官が儀式の際に並ぶ順番の目印にもなっていたようです。中央の道は「浮道(うきみち)といい国王や中国皇帝の使者など限られた人だけが通ることを許されたそうです。↑のミニチュアを見れば儀式の模様のイメージがつきやすいと思います。今回、このミニチュアに写る建物が全て焼失した形となります。こうした建物が四方を取り囲んだ構造もいろり型のようになり熱がこもりやすくなってしまった要因にも考えられます。正殿は琉球王国最大の木造建築物で国殿または「百浦添御殿」(ももうらそえうどぅん)と呼ばれ文字通り全国百の浦々を支配する象徴として最重要な建築物であったそうです。正殿を二層三階建てとしたことは琉球独自の文化だそうです。赤い塗装には沖縄独自の桐油(とうゆ)というものがつかわれています。桐油とはアブラギリの種から採る油であり、そこに顔料を混ぜた塗料が使われているそうです。また塗装の下地には漆も使われているそうです。これら沖縄独特の桐油が今回の火災を強める一因となったのではという見方もあります。沖縄タイムス11月1日記事・赤色出す塗料の「桐油」で火勢拡大か、防火体制が不十分の指摘も私が正殿を訪れて説明書きを読んでいて気になったのが水色のラインを引いたところです。「装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式というところです。」なので龍柱の写真を撮影しました。龍の柱が首里城内でも所どころで見受けられてシーサーのように対になっており口も「阿吽」となっています。根本はぐるぐると蛇のようにとぐろを巻いています。火を鎮めるシーサーに対し龍は水を鎮めると言われています。今まで見たことのないその力強さと威容に圧倒されました。↑手すりにも小さな龍柱があることが分かります。手前の大きな龍柱が大龍柱奥の小さな龍柱は文字通り小龍柱と呼びます。琉球王国においては龍は国王の象徴であるとされたため正殿内部にも龍の装飾は至るところで見受けられます。こちらの龍柱は1992年に復元された4代目になります。首里城正殿2階にある国王の座る玉座「御差床(うさすか)」にも御覧の通り絢爛華麗な龍柱と龍の装飾が施されていることがお分かりいただけるかと思います。この玉座の上に掲げられた「中山世土」(琉球は中山(国王)が代々治める土地)という文字は中国皇帝、康熙帝が自ら書いた書を掲げていたそうです。この書は勿論復元されたものでありますが復元の担当者は中国まで赴き当時の皇帝が書いた書物や碑文などを調査し同じ文字やパーツなどを探し、限りなく筆跡に近づけたというので驚きです。当時の担当者の執念を想うと今回焼失してしまったことが限りなく惜しまれますしその無念たるや図り知ることができません。沖縄タイムス11月3日記事・首里城の龍柱 猛火のひび割れに耐えた上の大龍柱は黒焦げになりながらも鎮火まで11時間もの時間を要した猛火に耐え抜きました。先ほど説明書きの所にもあったように龍柱は日中にも類例がなく琉球独自の文化であります。粒子が細かく密度が高い砂岩「ニービヌフニ」が材料に使われているそうです。龍柱は爪の本数で中共の属国云々や石は燃えないから当たり前だろという穿った見方をすればいくらでもできます。今の中共は確かに手放しでは相容れない危険な存在でありますが当時の琉球王国と中国の関係は私が現地で見た限り龍樋の碑や皇帝直筆の書、王国の使者への厚遇などから見るに良好な関係を築けていたように思います。火災で全てが焼失したと悲嘆にくれる人々の哀しみの前に現れた奇跡。焼け残ったのは沖縄の誇りです。3メートル1対の大龍柱は紛れもなく復興のシンボルであり前に進ませる原動力になるものだと思います。琉球王国の美術品1千点以上も焼失を免れました。人は希望がないと生きてはいけません。逆に希望さえあればどんな逆境でも生きていくことができるのが人間です。昇り龍のようにこれからの沖縄の益々の発展と首里城の復興を切に願っています。標高120メートルの小高い丘に汗を掻いた体に心地よい風が吹き抜けます。ここで首里城の旅の記事を終わらせていただきます。私が旅行した時に感じたのは優しい風と時間がゆったりと流れているということ。それを作り出しているのは沖縄県に住まう一人一人の心。三線を教えていただいたにおーさんというおじいちゃんの、強面だけど笑うと子供の様に無邪気な笑顔が忘れられません。ハイビスカスのような笑顔がそこかしこに咲いています。辛く哀しく美しい歴史や海だけではなくその哀しみすらもいずれ吹き飛ばせるほどのそして、やがては笑顔にかえる力強さと 海のように深く豊かな大きな心とおおらかさが沖縄の方々には備わっているものと思います。