カポーティ「ティファニーで朝食を」
カポーティ「ティファニーで朝食を」(村上春樹訳)を読む。夏期講習で三週間連続の授業をやっている最中、行き帰りの電車の中で何を読もうかと考えた。いったんは吉田満「戦艦大和」を手にとったのだが、くたくたに疲弊してぼろ雑巾のようになった頭には、ややハードすぎる選択だった。30頁そこそこで早くも挫折。さて、どうしたものか。でも、それに代わる本をなかなか思いつけない。朦朧とした頭で会社のデスクの引き出しの中をごそごそと探っていると、鮮やかなティファニー色(ティファニー・ブルーというのだろうか)の装幀が目に入る。これならばなんとかなるだろうということで、その本を通勤カバンの外ポケットに放り込んだのである。私はカポーティの良い読者ではない。これまでに読んだのは「冷血」ただ一冊のみ。それもつい最近のことである。彼の小説らしい小説を読むのはこれがはじめてだ。「ティファニー」を読みはじめてまず気づくのは、この作品のさまざまな箇所で村上春樹作品のあれこれが頭に浮かぶということである。「以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。」という書き出しは、「よくいるかホテルの夢を見る。」という「ダンス・ダンス・ダンス」の冒頭部を思わせる。そのアパートメントの最上階に住んでいたという日本人のカメラマン「ユニオシさん」は、明らかに「ダンス」の「ユミヨシさん」のルーツだろう。失踪した妻を捜しにアパートメントを訪れるドク・ゴライトリー。消えてしまった妻を捜しにいくという話型そのものが、「ねじまき鳥」を連想させる。おそらく村上の頭の中には、この作品がまるで現実の出来事そのもののように、ありありとリアルに存在しているのだろう。そして、彼が自らの想像力を起動しようとする時、「ティファニー」の断片が、彼の想像力の螺旋状のうねりの中に知らず知らずのうちに混入するのだ。その結果として、「ティファニー」のフラグメントが、村上作品のあちこちにばらまかれることになる。そういうことではないかと思う。村上にとって、この作品は文学的創造力のなし得る達成モデルのひとつなのだろう。そして、事実、「ティファニー」はそういう評価にふさわしい作品といえる。 しかし、この作品は一見すると、さりげなく、なにげなく、淡々と書かれているように見える。とくに奇をてらうこともない情景描写、生き生きとしてはいるが、特別に劇的とはいえない会話、小さなエピソードの積み重ね。だが、その作品の自然な流れにからだを預けていると、すうっとそのフィクションの大きなうねりの中に吸い込まれてしまう瞬間が訪れる。物語の深みにからだごと奪いとられてしまうような感覚を味わうことになる。その物語世界の深さは、ホリー・ゴライトリーという女性の存在の深さと一致している。奔放でわがままで天衣無縫な一人の若い女性の像は、まったく場違いな市立図書館で黒いサングラスをかけたまま、南米関連の図書を読みあさるエピソードによって微妙な立体感を帯び、「僕」が気になっていた350ドルの高価な鳥かごをクリスマスにプレゼントすることで別の角度から光を当てられ、そして、彼女を捜しにやってきたドク・ゴライトリーの存在によって決定的な影を背負うことになる。この作品の構造は、現在から過去を回想し、その過去の起点から徐々に時間が進行し、その中で、登場人物の生い立ちへと時間を遡行し、そして、そこからまた時間が前に進む、という折れ曲がった時系列を軸に組み立てられている。時間を後戻りし、そこから時間を進め、そこでまた後戻りし、という流れで作品が物語られていく。そして、結果として、時間は確実に過去へとさかのぼっていく。屈折しながらも、確実に過去へと帰っていく視線。カポーティの作品の核には、この「過去への視線」が存在しているように思う。同じ本に収録されている「花盛りの家」。ここには汚れのないものと汚れたものとの絶妙な混淆がある。私はこの作品が好きだ。汚れのない女性が一挙に汚れの世界に落ちながら、そこで汚れのないこころを守りつづける。一人の男が彼女を汚れのない世界へと連れ去ろうとして、ふたたび汚れにまみれ、しかし、そこでも汚れのない世界への憧れを捨てない。この汚れと汚れのない世界との、反復横跳び運動は、先に述べた過去と現在との無限の往復運動を思わせる。「花盛りの家」においては、この両者はどちらかに偏することなく、絶妙なバランスを保ったまま、見事なラストを迎える。「クリスマスの思い出」もほとんど奇跡的といっていいほどの作品だ。まったく何の脈絡もないのだけれど、私はこの作品を読んで、村上春樹の「蜂蜜パイ」を思い出す。「なぜ?」。そう聞かれても私には答えられない。でも、この二つの作品には、その根底に「同じもの」が通底している。何の根拠もなく、そう感じるのだ。村上氏ならば、おそらく「イノセンス」ということばを使って、それを説明するのだろう。しかし、私の語感はそれとはわずかに異なる。「イノセンス」を無垢でけがれのないものとだけ定義づける立場を私はとらない。それはある意味では、とてつもない残虐や暴力にもつながりうる両義的な意味をもつことばだというのが、私の感覚である。では、カポーティの作品の底に流れる「何か」をどうことばであらわしたらいいのだろう。失われたもの。あるいは失われたものとしてしか認識しえない、あるもの。どこまで接近しても、ついには到達しえないゴール。そういうものを目指してカポーティは作品を書いているように思える。そして、書けば書くほど、その作品世界の可能性は確実に狭まっていく。村上作品は、その隘路を認識し、それを意識的に乗り超えようとしたところから、新たな展開を始めたように思える。その針路を決定づけたのが「ねじまき鳥」だったのだろう。ただ、カポーティの作品は、たとえ、その行きつく先が行き止まりだということを知っていたとしても、あるいは知っていたからこそ、限りなく甘美で、かつ魅力的である。彼の作品世界そのものが、限りなく美しいことを私は認めざるをえない。たとえ、その美しさと限りない魅力が、「出口のない」閉ざされた世界に条件づけられたものであったとしても、である。