翌日、神清水の菅舩神社の社務所で、宮司の鈴木定氏が待っていてくれた。そして私は再びあの「太郎石」の前に立っていた。傍らで鈴木氏が、「毎年正月になると、村の若者たちがこの石を持ち上げて力くらべをするんだわ。本当はもう一つの小さめの次郎石というのがあったんだが、第二次大戦後に無くなってしまってな」と説明してくれた。
「誰が、なんのために神社からそんな石を盗んで行ったんですかね?」
私は意外な思いで尋ねた。
「いやー、なんでかね・・・。漬物石にでもする積もりだったのかね」
彼は困惑したような顔をして言った。
「それにしたって神様の石でしょう? 普通の人だったら、とても畏れ多くて盗み出せないんじゃないですか? ましてや漬物石に使うとは・・・。ところで次郎石の下は凹んでいませんでしたか?」
私はせき込んで尋ねた。もしそうならば、二つ重なって「重ね石」になるのではないか、と思ったからである。
しかし宮司の答えは、「子どものころ見ただけなのでそこまでは憶えていない。しかしここの行事は有名で、毎年テレビ局が取材に来るんだわ」ということであった。心なしか、宮司の顔が誇らし気に見えた。
それから誘われるままに、私は社務所に上がり込んだ。太郎石が駄目であっても、あの唄が書いてあるものを見せてもらいたいと思ったからである。
しばらくの雑談に時が流れた。
——どうしたのかな。あの唄の書かれているものを見せると言っていたのを忘れちゃったのかな。
心配になった私はおずおずと宮司に訊いてみた。
「あの~、唄が書かれているのがあるというのは・・・?」
「あー、そうだった。それは外だ」
宮司は再び立ち上がると玄関へ出て行った。
——そと・・・? なんで唄が外にあるのか・・・?
私は慌てて後を追った。彼は足が不自由である。その彼が玄関先で杖を持って立っていた。
私たちはもう一度神社の境内に行った。そしてその境内には、人の背丈の二倍ほどの高さの歌碑が立っていた。
鳥賀居る 神の御井戸に うがいして 雲の上まで 声すがすがし (北畠顕信)
みちのくの 安達の真弓 取りそめし 尾之辺につかぬ なげきつつ (北畠守親)
それには、 皇紀弐千六百(一九四〇)年記念に建てたと彫られていた。 ——なんだ! 新しい物ではないか。 私はそう思っていささか面食らった。そしてがっかりした。残念ながら私の探している唄とは、唄が違っていたのである。
なお北畠顕信とは南朝方の贈正一位・大納言・北畠親房の次男であり、鎮守府大将軍・陸奥大介・北畠顕家の弟である。そして顕信は兄の顕家が戦死した後、鎮守府将軍・陸奥介を嗣ぎ、我が子の大納言・陸奥国司・守親とともに宇津峰山に入ったものである。それであるから、菅舩神社の宮司・鈴木定氏が現在も宇津峰山の皇子の祠の宮司を兼ねていること、そしてこの歌碑などから、南朝と菅舩神社との間に強い関連のあることは、間違いないと確信できた。そこで私はあの唄のコピーを出して宮司に尋ねた。
「そういう唄があるのをはじめて知った。何に出ていたのか」
と逆に訊かれた。
唄が出てくると思っていた私は、呆然とした。しかしそれでも宮司の、次に続いた言葉が私を奮い立たせた。
「[太郎石・次郎石]はともかく、重石部落に[重ね石]という名の石があり、さらにその近辺に[仁王様の休み石]というものがある」
と教えてくれたのである。私は、
——なーに、本物の[重ね石]さえ見付かれば、[太郎石・次郎石]を気にすることはないな。
そう思っていた。
田村郡三春町生まれの私は、三春の田村大元神社の門に、昔から大きな仁王像が鎮座しているのを知っていた。そしてその田村大元神社を、地元の人たちは[明王様]と呼んで親しんでいた。それであるから、私はこの話から、三春や守山の[田村大元神社]と[仁王様の休み石]との間に何か強いつながりがあるのかも知れないと感じていた。
重石の部落では、鈴木宮司から電話で連絡を受けていた芳賀朝二氏が、
「俺は面倒だから、人に訊かれたら『そんなもの、分からない』って断わるんだが、禰宜様に言われてはね」
と言いながらも、人のいい顔をして待っていてくれた。彼は神清水の菅舩神社の、氏子総代であるという。
私は準備してきた運動靴に履き変えると、畦道を辿った。足の悪い鈴木宮司も、杖をついて同道してくれた。