資料 3
◎丹羽寛次郎宗源 文政八(一八二五)年~文久三(一八六三)年 蝦夷地派遣 軍事奉行・丹羽織之丞能教の孫 表御用人書簡役 京都守護職の松平容保に随行、京都にて病没。 丹羽五郎 寛次郎宗源の養子 嘉永五(一八五二)年~昭和三(一九二八)年 城後は斗南藩には行かず巡査となり、西南戦争に参加。その後、猪苗代周辺の農民を連れて北海道開拓に従事し、丹羽村を起こして能教寺を勧請した。現在の北海道『せたな町』である。◎有賀織之助 嘉永六(一八五三)年~慶応四(一八六八)年 北蝦夷地派遣 有賀権左衛門満幸の次男 有賀権左衛門満幸は、元治元年七月十九日、番頭・一瀬要人隆智の目付として蛤御門を守り戦死した。その次男織之助は白虎士中二番隊に入って出陣。母いく子は「君のために殉じた武士の子どもだということを忘れず、生きて家名を汚すことがあってはなりません」と戒めたといわれる。飯森山で自決。母は、同じく北蝦夷地派遣に派遣された高木小十郎の妹である。◎ 篠田儀三郎 嘉永五(一八五二)年~慶応四(一八六八)年 北方警備に派遣された篠田兵助隆置の孫 儀三郎は白虎士中二番隊に入って出陣した。儀三郎は最後にあたって日頃愛誦していた漢詩を朗々と吟じた。「人生古より誰か死無からん。丹心を留取して汗青を照らさん」これを合図に隊士は次々に自刃し倒れた。◎ 山寺貢 天保八(一八三七)年?~慶応四(一八六八)年百石 目付。北蝦夷地派遣御目付 山寺貢の子息か? 六月十二日、白河・古天神で戦死。享年三十一歳。◎横山数馬 文政十(一八二七)年?~慶応四(一八六八)年 北蝦夷地派遣道中奉行・横山数馬の子息か?軍事奉行添役として、若松甲賀町通(会津戸ノ口原とも)で戦死。享年四十一歳。◎ 大河原臣教 天明元(一七八一)年~天保三(一八三二)年 北蝦夷地派遣 文政元(一八二八)年九月十八日、藩祖正之の事績を四冊に編纂し、『千歳の松』 と名づけて之を納めた。東京の国史研究会に保存されている。 いま北海道内の各地に、北方警備の道半ばに斃れた藩士たちの十五基の墓碑が建立されている。 たんぽぽや会津藩士の墓はここ この慰霊の句を記した記念碑が一九七七年六月、稚内市宗谷地区に再建された。また二〇〇六年八月三十日、利尻島には黒御影石で高さ二・八メートル、幅一・一メートル、台座が磐梯石の会津藩顕彰碑が建立され、今も静かに藩士の霊を見守っている。 稚内市宗谷 宗谷岬(会津陣屋跡) 三基 (原田嘉重郎記里) (要久右衛門) (平田八十八保実) 利尻郡利尻町沓形字種富町 二基 (諏訪幾之進光尚) (山田重佐久) 利尻郡利尻富士町鴛泊 慈教寺 三基 (遠山登僕利助) (関場友吉春温) (白石又右衛門僕宇兵衛・河沼郡駒板村所出) 利尻郡利尻富士町字栄町 本浄寺 三基 (樋口源太光徳僕孫吉) (渡部左右秀俊) (丹羽織之丞僕茂右衛門) 苫前郡羽幌町焼尻島 二基 (小原円近忠貫) (山内一学豊忠) 増毛郡増毛町 増毛海岸 二基 (下司昌武) (百崎重信) なお会津出軍記によれば、『死亡之者合五拾人』とある。残る十五人の墓地は作られなかったのであろうか、それとも見つけられていないのであろうか。 (終) ブログランキングです。 50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。