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カテゴリ:さまよえる神々~宇津峰山に祀られた天皇
三 柱 の 神
家に帰った私は再び地図に向かった。そして塩田氏に言われたようにその地図の上で、月夜田、重石、大草、浦郷戸(陣場)となぞってみた。するとそれらは、きれいに北の守山に向かっているではないか! しかしながらこの線は、大草から守山へ直接行かず、浦郷戸(陣場)で躊躇したかのような不思議な動きを見せている。 そばで興味深げにそれを見ていた娘に、私は今までに調べたことを話した。 「つまりこの陣場とは単に戦場ではなく、[何かのいさかいのあった場所]を意味している、と考えたらどうかな」 そうは言ったものの、私は考え込んでしまった。何故いさかいがあったか? が分からないのである。 「やはりこの[陣場や]や[残る塩田や][二ツ村]、というのが問題だな。それに神清水と外の内の菅舩神社に何かが残ったとすれば、神様かそれに関連するものしか考えられないし・・・。それにしても、神清水というのは何となく分かるが、外の内(そとのうち)とは妙な地名だな」 「ところでお父さん。神清水の菅舩神社には、重石の御旗神社を合祀したと言っていたわよね?」 「うん。御旗神社の天照大神と天太玉命を移した、と言っていた。するとこの[残る塩田や]の[残る]は、この二柱の神々のことかな? ということは、田村郡誌にも[(塩田村の明王重石と云う地)に移して]とあることから、二柱の神々と一緒に祀られていた大元帥明王も重石から陣場に行ったと考えられる」 「ということは、陣場まで行った二柱の神々と大元帥明王がそこで喧嘩をしたということ?」 「喧嘩とは穏やかな言葉ではないが、大元帥明王と二柱の神々とが互いに取り込むための攻めぎ合い、もしくは分裂のための争いがここであったということを示唆する地名なのではあるまいか? そう考えてみれば、二ツ村とは、御旗神社の神々が塩田の神清水と外の内の二ツの村の菅舩神社に残されたということを意味するのではないかとも考えられる」 娘が遮った。 「それなら月夜田の神社の火事は単なる火事でなく、田村氏が戦いに敗れた時の兵火とは考えられない?」 「ん? なんだって?」 「例えば、宇津峰山や月夜田での戦いに敗れた田村勢が逃げた。逃げる以上どこに集まるか、目的地を明示すると思うの。そこで敗れた田村勢が逃げる目標とした重石の御旗神社に集結はしたものの、その姿は血にまみれ泥にまみれて鬼気迫る阿修羅のような姿。そしてここにも火をかける。それを村人たちが恐る恐る見ていたとしたら、まさに仁王様の集団と思えない?」 「うーん、仁王様の集団か・・・。疲れた上に恐怖と神社の燃え上がる火で赤く照らされた落武者たちの集団。なるほど、そうすれば[仁王様の休み石]がいっぱいあっても変ではないな。これはまた随分とエキサイテングな推理だな」 私は話の急転回に、息を呑む思いであった。 そう推理すれば、ここで休んだ田村勢が唄にはない大草を通って陣場へ行く、そしてそこで何かが起きたとも考えられる。するとそこで、もう一つ考えられるのは、宇津峰山に天皇たちを祀るために、もともと宇津峰山にあった神様を月夜田に移したということである。確かにあそこには、[南朝方に立って宇津峰に拠らしめた本山修験派が、南朝勢力の衰退につれ、北朝勢力を背景として進出してきた当山派勢力に抗し得ず、大元帥明王社によった勢力を分断された]と三春町史にもある。それに田村郡誌にも、[其頃は宇津峰の社壇をも此寺にて祭り居りしに]とあることからそれは考えられる。「ところでお父さん。天皇や亀山天皇は、宇津峰山に来たことがあるの?」「いや、そんなことはあり得ない。村上天皇は西暦九四六~九六七年の天皇、亀山天皇は一二五九~一二七四年の天皇だ。それに宇津峰山頂の三祠は、南北朝後に成立したと考えられる。あの唄を書いてある田村郡誌の説明に、[辺鄙の土民、天子の御謚を呼び捨てに謡ふ事あるまじく(御謚、村上、亀山、の上に後の字なくては、南朝の天子ならず)皇子をも宮とこそ呼べ王子といふべくもあらず]とある通り、村上天皇や亀山天皇ではなく、後村上天皇(一三三九~一三六八)と後亀山天皇(一三八三~一三九二)を祀ったと考えるのが順当だろう」 「では。後村上天皇や後亀山天皇は来られたの?」 「実は長慶天皇はナゾの天皇とも呼ばれ、長い間、天皇の系譜には加えられていなかった。その存在は大正十五年になってからはじめて確認されている。しかも長慶天皇は正平二十三(一三六八)年、皇族五十七名、公家七名、僧侶十三名、武将三十七名が三種の神器を父の後村上天皇から受け取り、今の八戸へ出発したという。田村氏が八戸へ行った史実と合うな。ここの櫛引八幡宮には長慶天皇御料とされる『赤糸威鎧兜』が祀られており、その後、多賀城から霊山に来られているのに宇津峰山には不思議と祀られていない」 「とすれば、この祀られた位置に意味はない? 例えば仏教では中央に本尊、両脇には脇侍だわよね?」 「うーん、なかなか面白い切り口だな。それにしても第六二代が村上天皇で第九十代が亀山天皇。さらに時代が下がって第九七代が後村上天皇で第九九代が後亀山天皇・・・。つまり即位の順序から並べてみると、どちらのグループから見ても中央、左、右という順になるが・・・」 後村上天皇 「・・・それでは右大臣と左大臣はどっちが偉いの?」 「えっ、なんだって?」 娘の矢継ぎばやな質問に、私は押され気味であった。娘は続けて言った。 「だってお父さんは祀りたかったのは皇子つまり宇津峰宮だと言っていたでしょう? そうすれば、来たこともない天皇を祀るということは、何かの言い訳じゃなかったのかと思ったの」 私は自分が推定していたことを言われ、いささかまごついた。そこで私は辞書を確認した。 「右大臣は左大臣に次ぐ、・・・か」 「つまりそれだったら、左右では解決出来ないわね。だってそれでは、後亀山天皇の方が宇津峰宮より偉い位置に祀られているということになるものね・・・。それだったら、方角に意味はないかしら」 「うーん。[南に亀山、中に村上、北に宇津峰宮(仙道田村荘史)]か・・・」 まるで私は、娘の誘導尋問にかけられているようであった。 後日、谷田川の菅布禰神社に行ってみた。宮司の力丸守氏の話によると、たしかに二つの菅舩神社と同じく、ここも宇津峰山と関連があった。三神社で山頂の神々を祀っているのである。これで祀っていた三カ村の名と神社は、確認できた。 過去、宇津峰神社の祭礼は陰暦四月一日であった。やがて新暦の五月一日に変更された。そして現在は四月二十九日の[みどりの日]に変更され、郡山市・須賀川市共催の宇津峰山山開きの日に合わせられている。 しかしこの唄については力丸守氏もやはり知らないという。ただしここ菅布禰神社の祭神は、猿田彦命のみであるという。すると塩田の二ツの村に残された神は、天照大神と天太玉命であるという有力な傍証になるのではなかろうか? つまり陣場で分かれたのは、御旗神社の神々と、大元帥明王ということになる。そう考えれば、[陣場や 残る塩田や 二ツ村]の三つが一挙に解決することになる。 当時の宗教観には、現在とは比較にならないほど強いものがあった。それであるからこそ北畠氏と田村氏との間の強い軋轢が、陣場での対立と分裂につながったのではあるまいか。私は、確信に近いものを感じていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.12.16 08:18:27
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