1616956 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

桐屋号

桐屋号

カテゴリ

著書一覧

(1)

ショート、ショート

(236)

街 こおりやま

(91)

阿武隈川~蝦夷と大和の境界線

(15)

埋蔵金の伝説

(7)

三春藩と東日流外三郡誌

(12)

安積親王と葛城王

(18)

安積山のうた〜思いつくまま

(8)

和歌と紀行文に見る郡山

(42)

田村麻呂~その伝説と実像

(19)

雪女~郡山市湖南町の伝説

(9)

郡山最初の領主・伊東祐長

(21)

田村太平記~南北朝の戦い

(32)

源頼朝に郡山を貰った男

(24)

愛姫桜~ひそやかな恋の物語り

(12)

北からの蒙古襲来

(12)

さまよえる神々~宇津峰山に祀られた天皇

(15)

三春挽歌~伊達政宗と田村氏

(19)

寂滅~隠れ切支丹大名

(10)

江戸屋敷物語

(9)

大義の名分~三春は赤穂とどう関わったか

(12)

三春化け猫騒動~お家騒動伝説

(14)

三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本

(0)

戒石銘

(10)

会津藩、ロシアに対峙す~苦難の唐太出兵

(42)

郡山の種痘事はじめ

(25)

いわれなき三春狐

(10)

三春戊辰戦争始末記

(45)

遠い海鳴り~幕末三春藩の経済破綻

(15)

小ぬかの雨~明治4年、三春藩最後の敵討ち

(16)

馬車鉄道〜インダス川より郡山・三春へ

(31)

三春馬車鉄道(抄) 2006/3 歴史読本

(1)

マウナケアの雪~第一章 銅鑼の音

(27)

マウナケアの雪~第二章 心の旅路

(24)

マウナケアの雪~第三章 混迷するハワイ

(29)

マウナケアの雪~第四章 束の間の平和

(26)

我ら同胞のために~日系二世アメリカ兵

(50)

二つの祖国の狭間で

(21)

九月十一日~ニューヨーク同時多発テロ

(13)

石油輸送救援列車・東へ

(13)

講演その他

(2)

新聞雑誌記事

(27)

いろいろのこと

(1)

海外の福島県人会

(34)

鉄道のものがたり

(10)

コメント新着

桐屋号@ Re:郡山の製糸(01/04) ビジターさん 1* 私はPCについてよく知…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
桐屋号@ Re:10 新たな資料(02/26) 詳細をありがとうございました。 つい先日…
桐屋号@ Re[1]:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) 通りすがりさんへ ありがとうございます…
湊耕一郎@ Re:10 新たな資料(02/26) 御無沙汰しております。お変わりありませ…
通りすがり@ Re:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) 今泉正顕著「安積采女とその時代」(教育書…
aki@ Re:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
GX革命@ Re:大同2年(04/26) ルパン三世のマモーの正体。それはプロテ…

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2009.01.31
XML

「平蔵! 事はそう簡単なものではないぞ。新潟港近くから阿賀野川をさかのぼると、間もなく会津藩領津川の川港となる。我が帆船とは異なり、小型のロシアの黒船ならば、そこから上陸も可能。南部藩ほどの警戒の必要はないとは思われるが、それでも田中様は物見・連絡のため、新潟港と佐渡島に一隊を派遣の検討をなされておる」
「なるほど、それなら御家老様もご存知と思いますが、寛政七(一七九五)年、ロシア軍艦は日本の商船の貨物を蝦夷地近海で略奪したあげく択捉島へ強行上陸しておりますし、またイギリス船プロビデンス号が室蘭に来航して上陸しております。そうなるとイギリス艦隊の動きも見張る必要があるのかも知れません。新潟港は重要なのかも知れません」
「それらもあって十年ほど前、幕府は近藤重蔵を首領とした総勢一八〇名余の大調査団を蝦夷地に派遣した。その後幕府は、蝦夷地東部から千島列島までを松前藩から召し上げて幕府の直轄領とし、箱館に奉行を置いて南部藩、津軽藩、秋田藩、庄内藩に蝦夷地防衛のための出兵を命じた。南部藩からは五〇〇人が出兵、その主な駐屯地は箱館、室蘭、根室、国後島、択捉島などの広い範囲にわたったという。それに日本の領地としての実効を上げるため、最初の大規模農業移住が実施され、八王子から農家の二,三男約一八〇人(八王子千人同心)を苫小牧沿岸や勇払沿岸に移住させた」
「そのことについては存じておりましたが。後手に回っていた蝦夷地の所領権がわが国にあるということを、明確にしようというお考えに基づくものなのでございましょうか?」
「うむ。ここはわが国にとって、裏庭のような場所であるからな」
「私も左様思います。しかるに近年、北蝦夷地や千島の各地で和人とロシア人との衝突が頻発するようになりました。その上、文化元(一八〇四)年には、ロシアのレザノフという者が長崎へ来航、翌年、松前藩は防衛能力無しとして奥州の梁川(福島県伊達市)への転封を命じられました」
 采女は身を乗り出して言った。
「それにロシアのレザノフは昨年にも北蝦夷地のクシュンコタンを侵し,今年には択捉島を襲って沙都会所などを焼き,ついで利尻島で幕府の官船を焼き払った。『択捉島事件』というのだが、これには幕府も黙ってはおれず、再び津軽、南部、秋田、庄内各藩に出兵を命じた」
 平蔵の声も、思わず強くなった。
「はい、それに御家老様。ロシアという国は、恐ろしく力のある国のようでございます。今年の春、ロシアはアラスカの領有を宣言、ここを足がかりに、つい先年建国したばかりのアメリカ国の西部・常夏のカリフォルニアのフォート・ロスに城壁を作り、農業入植地の建設して。わがものとした上で、それでも飽きたらぬのか通商使節のレザノフは実力で日本との通商を図ろうとして北蝦夷や千島列島を襲撃しているのでございますから」
「うむ。このような経験もあって、幕府は蝦夷地の防衛強化策を打ち出した。そのような地へのわが藩への派兵要請であるから、家老会議は揉めた。『断固拒否すべし』との意見もあったがこれは幕府の要請、むげに拒む訳にも参らぬ」
 そう言われて黙ってしまった平蔵に、采女が続けた。
「だがその議論は、田中様が幕府に対して逆に派兵を依願されたことを話されたことで、皆黙ってしまった。そのとき田中様がこう言われた。『長い間わが藩が、不作などで苦しんでいたあの財政難。その再建のため、完全に成ったとは言えぬまでも幕府には一方ならぬご配慮を賜った。幕府に蝦夷地防衛の強い意志があり、寒冷地のため奥羽の兵をというご考慮から庄内藩や仙台藩の追加派兵の内定のあることを知って、わしは断ることが出来ぬと思った。無論お国のためという遠大な理想もあるが、むしろこの派兵をわが藩の実績として、わが藩の地位向上に役立てるべきであると考えた』とな」
 そう言われた平蔵は、藩の過去を考えていた。

 当時の会津藩は、度重なる不作と百姓一揆、城下の大火や江戸上屋敷の火災、さらには山形城在番を命じられるなど財政は破綻寸前となっていた。藩は年貢の引下げにより農村の安定をはかり、また藩士俸禄の借上げ(借知)も行ったが財政は悪化の一途をたどった。累積した借金は五十七万両にものぼり、(一両=一石)会津藩の石高の二倍以上の巨額の借金となっていた。このようなとき、田中三郎兵衛玄宰は家老に任じられ、藩政改革を推し進めていた。玄宰は倹約令や華美な風俗を取り締まり、特産品の売買奨励や教育の普及などを図り、さらには京都から招聘(しょうへい)した工人により金粉・金箔の生産し、会津漆器の名を全国に知らしめた。
 寛政五(一七九三)年には江戸中橋に会津藩産物会所を創設し、会津の品を販売して多くの利益を得、さらには長崎在留の清国やオランダと貿易を試みた。これらのことにより、財政再建が成されていった。享和三年(一八〇三)年には藩校・日新館を創設した。ついで玄宰は薬用人参の栽培、酒造、陶磁器、そして絵ろうそくの改良など、産業の振興を進めた。この藩政改革は大いなる成功を収め、藩政も比較的安定化した。

 

ブログランキングに参加しました。
50位以内に入れればいいなと思っています。是非応援して下さい。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。

バナー←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2009.01.31 10:42:03
コメント(0) | コメントを書く
[会津藩、ロシアに対峙す~苦難の唐太出兵] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.