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『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2009.02.20
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  四月十四日の早朝、江差沖を航行していたが北東からの風に変わったため、熊石で帆待ちをした。熊石には元禄四(一六九一)年に番所が設置され、和人にとっての最北端とされていた。そこからは乙部岳が見えた。別称は九郎岳で、九郎義経公の名にちなんでいる高峰である。気のせいか、その景色はうら寂しく見えた。昼からは東南の風になったので再び出帆、於古志利島(オコシリ・向こうの島の意=奥尻島)を過ぎた。奥尻島には住民はなく、その山はそれほど高くない。しかしその周辺では、アワビが多く捕れるという。
 断崖絶壁にそびえる太田山(山岳霊場・太田神社のある太田崎)を過ぎ、世多奈伊(セタナイ・犬の泳ぎ渡る川の意=久遠郡せたな町)の沖を通った。船から見る海水は青黒く、急に強まった風で波が高くなり、船に乗った多くの人は立っていられなかった。ここは蝦夷三険岬(神威岬、雄冬岬)の一つとして恐れられた所である。
 船頭が言うには、
「せたなの川の水が海に入る所のため波が湧き上がり、これまでの南の海のような訳にはいかない」
とのことであった。
 それから北、船から見る茂津多岬(モツタ=せたな町)は、狩場山の稜線が西に延びて海に急に落ち込んだ急峻な断崖で、それがしばらく続いていた。いわゆる中茂津多岬で、水の冷たい所である。このモツタはアイヌ語で、大崖続きの間に小さな浜があってモ・オタ(小・砂浜)と呼ばれていたからというものと、小さな斧をモッタと言うことからそれに因んだ名であるというのがあって、定かではない。
 シュプキベツ(芽の多い川の意=寿都郡寿都町)という所に弁慶岬があり、その先イワオ・ナイ(硫黄の流れる沢の意=岩内郡岩内町)には弁慶が刀を掛けたという刀掛岬がある。この辺り、かなり船が揺れた。船頭にも「これより先は波濤が荒れ、しばらくは静かな航海はできない」と言われ、『火の用心』を言い渡された。そのため夜になれば喫煙が許されず、藩士からも火の監視人を決めるなど厳重な警戒が要請された。
 四月十五日、見渡す限りの山の残雪は未だ消えていなかった。東の方を見ると、雲が後方羊蹄山(しべりしようていざん)一面にその麓まで覆い、僅かにその頂上が見えた。富士山に似たその姿から、蝦夷富士とも称される。アイヌ語名のシリベツ(山に沿って下る川)に由来するという。
 平蔵が言った。
「史書によると斉明天皇の五年、阿部比羅夫は秋田・能代のアイヌ二四一人とその虜三一人、津軽のアイヌ一一二人とその虜四人に加えて、膽振(いぶり)のアイヌ二〇人をも一ヶ所に集め、大いに饗して禄を与え、さらに船一隻と五色の綏帛(すいはく・絹で作られたロープ)でその地の神を祭った。そして肉入籠(ししりこ・秋田県北秋田郡鷹巣町綴子・ししりこ)というところまで行った時に、アイヌ二人が後方羊諦を政所にすべきだというので、郡領をおいて帰ったとされる」
「斉明天皇ですか?」
「うん。斉明天皇は第九十七代、今上天皇(光格天皇)は第一一九代であらせられる。ということは大分、昔のことだな」
 友吉は驚きの声を発した。
「いやあ、そんな昔から蝦夷地に目を向けていたのですか」
「それにな、おもしろい話がある。文禄朝鮮之役で加藤清正が兀良哈(おらんかい朝鮮東北部、中国東部との説も。豆満江の北岸)に攻め入り、その帰途、山東省青州で逢った松前の人が言ったと言うのだ。
『天気晴朗の日は、松前から富士を見ることができる』
 その話を聞いて、林子平が言った。
『もともと蝦夷は遠いところである。どうして蝦夷で本当の富士山を見ることができるであろうか。つまりこの利尻島の山を富士とするのは、大変な間違いである』
とな」
 この晩、積丹半島(シャクは夏、コタンは村を表す)の加毛伊崎(カモイ=神威岬)を過ぎる。神威岩、メノコ岩などの岩礁が海面にごそごそと突き出していて海岸に近づけず、その中で一つ、高さ十四、五丈も立ち上がった岩の形態は、まるで衣冠を付けた人が手を合わせて立っているように見えた。アイヌ人たちは、これをカモイと呼ぶ。カモイはアイヌ語で神の意味である。古くはオカムイ岬とも呼ばれた。この付近は古くから海上交通の難所として知られており、神罰を恐れて女人禁制とされていた地である。そこで船毎に各々まじないの小舟を造り、干し草を結んでこれを海に投げ入れて祈った。この風の祭りのためか急に船足が早くなり、逆に船酔いに苦しむ者が急増した。
 平蔵が友吉に話しかけた。
「義経公の蝦夷地での最後の足跡はここ神威岬だ。伝説とは言え、随分遠くまで来たものだな」
「あれっ、先輩。そのようなことを、どこで調べられたのですか?」
「いやいや、それは『蛇の道は蛇』でな。松前にいたときにそれらを聞いた。ただのう、伝説と知った上で追いかけるのも面白いのではないか? それに江差追分の話もある」
「江差追分?」
「うむ。この江差追分に『蝦夷地海路の お神威様はネ~ なぜに女の 足とめる』とあるのだが、この女人禁制の目的は、松前藩がアイヌの人に重労働を課したり厳しい収奪を繰り返していたことを、人の目から隠すためであったとも言われている。つまりは和人の往来が、それだけ激しくなっていたということであろうし、また義経公の伝説を利用することで秘境とし、関所の役割を与えたのかも知れぬ」
「それも松前で聞かれたのですか?」
「む。いろいろと教えてくれる人がいてな。ともかく地元のことは地元に聞くのが一番。まあ、節は定かではないが、文句はこのようなものであった」

  (前 唄)松前江差の 津花の浜で ヤンサノェー
       すいた同志の なき別れ
       ついていく気は やまやまなれどネ~
       女通さぬ 場所がある
  (本 唄)忍路高島(小樽市高島岬) およびもないが
       せめて歌棄(寿都郡寿都町) 磯谷(寿都町)まで
  (後 唄)蝦夷地海路の お神威様(積丹半島・神威岬)はネ~
       なぜに女の 足とめる



 

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最終更新日  2009.02.20 14:57:07
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