六月二十四日、北原陣将は富五郎と源七を呼び出し、一昨年のロシア船来襲の様子を訊いたが、そのとき平蔵が陪席した。
「私らは文化三年九月にロシア船に捕らえられ、便刀呂婆宇留志古伊(ペトロパウロスコイ)に拉致されました。昨年の正月になって加牟左都加(カムチャツカ)半島のペドロパブロフスクに呼び出され。酒を出されて歓待されましたが、彼らは再び日本に行く積もりであることを、中国語の筆談で分かりました。それによると彼らの首領の名は弥加良伊左牟多良伊知(ヤカライサムタライッチ)で、われらを通訳として長崎へ行くということでした。」
それを聞きながら、平蔵は想像していた。
──ヤカライサムタライッチとはカムチャツカの東海岸の便刀呂婆宇留須(ペトロパウルス)のことであり、首領の尓古良伊安礼伎左牟刀呂伊知(ニコライアレクサンドロイッチ)とは、別名保於志刀布(ホオシトフ)ではあるまいか。ただ前者は一般人としての名、後者は役職名と考えられる。
「彼らはわが国の事情を訊いてきましたので、私たちも何故彼らが日本に行くのかを問いました。すると『以前にわが国王は日本の漂流民を哀れみ、わが高官が送還するため連れて行って通商を依願したが許可されなかった。どうにかならないかと頼んだところ、今後ロシア人は来てはならない。もし来ることがあれば撃ち果たす。そうすればどこかの国に漂流することになろう。まして通商などとんでもないと言って断られた。このようなことではわが国としても困る。そこでわが国王は自分を日本に派遣し、日本の言うところを確認されようとしている』と言いました」
「うーん」
「そこで私たちは、『公文書を以て理由を明らかにしないまま、このようにして彼らが辺疆を荒らせば、単なる盗賊と変わりがない』と強く抗議しました。するとその頭目はロシア語で書類を作って読み、源七に日本語に翻訳させて書類にしました」
「うむ。しかしロシア人を相手によく頑張ったな」
「はい。私たちもこれを言うと殺されるかと思い、必死でした。そしてその四月、私たちは知由歩加諸島(シユホカ・千島列島)を通ってカラフトに入りましたが、その途中で日本の商船を襲い、島々の集落を襲って財貨や食糧を略奪しました」
「うムん。何故ロシア人はそのように手荒なことをするのか。その方らに、何か心当たりはないか」
「はい。恐らく彼らは食糧などの積載量が少なく、現地調達の方法があのような略奪を生んでいるのかと思われます」
「ロシアは五洲中の一大帝国である。それにも拘わらずこのようなことをするとは・・・まったく信用が出来ない国だ。それでどうした?」
「はい。六月になって、利尻島に着きました。しかしここに来るまで略奪や調査をしながらですから、二ヶ月もかかりました。私たちは以前に源七の書いた書類を持たされて海岸に置き去りにされましたが、そのとき彼らはこう言いました。『来年再び来る。われらをカラフトかウルップ島、もしくは択捉島のどこかで待ち受けよ。もし返答がなければ、わが国の役所をカラフトに置く』と」
「うむ。随分高飛車な言い分だな」
緒方外記の西域聞見録などを見るとロシアの軍事力は極めて強く、各国を呑み込むことを常としている。ロシアは中国・明の時代は東西一万余里に過ぎなかったが、清の乾隆に至るたかだか百余年の間に東西二万余里、南北三千余里を有するに至った。現時点においての様子はよく分からないが、東方は海に至っている。理由もないロシアの強欲に、呆れるほどである。わが国が拒絶してもこれを無視するロシアは悪い。これは討つべきである。そう平蔵は思った。
六月二十六日、平蔵は妙な鼠を捕った。普通の鼠より体が大きく、全身黄色に近く白い斑点があり、尾端にも毛があった。通常は樹上に生活し、性質は穏和で人を恐れることを知らないという。ある人が『まだらねずみ』であると言う。また利古牟加武伊(リコムカムイ)には犬に似て尾がない珍しい家畜がいる。狐の類かと思われた。海には昆布が産出し、女が水中で刺して採っていた。
閏六月四日、小雨、寒い。火を焚いてあたる。アイヌ人の持っていたロシアの銀貨とメダルを見た。銭には縁に山があって穴がなかった。縁は紅色の小環十三で囲まれ、目が深く縮れ毛で気高い顔立ちで生きているような人面が刻まれ、背面にも浮き彫りがある。外国文字も精巧でなんとも言い表せない美しい感じである。メダルは丁度わが六両銀のようで、王の顔を銀で鋳造してあった。その武功を讃えたものであろう。ロシアの虜囚がシレトコにいたとき、彼らが災禍にあってその事変を記したものと一緒にアイヌ人に与えられたものであるという。アイヌ人は気が弱くしかも武備がなく、ロシア兵が来ても抵抗することができないでいた。それをいいことにロシア兵はアイヌの子どもを利用して行動し、銭や絹織物を施して懐柔しようとする。この邪な謀略は憎らしいほどである。
閏六月九日、軍事訓練を兼ね、兎狩りをした。その際北原陣将が兵舎に来て、眼病の白井胤固に真珠を贈った。真珠は古くから高貴薬として、御典医などが眼病、熱病、不眠症、婦人病、赤痢、百日ぜき、はしか、遺尿症などの治療に用いてきたものである。また事故、傷病者には士卒、下級者にも必ず副官を遣わし、患者の家族に見舞として銭一千文を贈った。人々はその温かさに感激した。
閏六月十六、十九両日に閲兵され、二十日鎮台から労いの酒が振る舞われた。
閏六月二十八日、兵営のある南の山上に、以前にロシア船に放火された旧跡より二〇〇歩ばかり海岸から遠ざかった所に守り神としての弁財天廟が完成した。もともとそこにはロシアの銅板が掲げられていた場所であったが、どういう訳かその銅板には文字がなかったという。今回舟人たちが帰国の安穏を祈るために、その再建を請うていたものであった。北原陣将は松前からの雇い人の萩平近禮に木を削らせ、『妙音宮』と三文字で題を入れて扁額とした。社が引き締まって、強く見えた。この日、多賀谷高知、田中玄徳らが雅楽を奏して落成を祝い、荒井保恵はお祝いの酒肴を贈った。本場の中国で隋唐の古い音楽は亡びているのに、わが国でこのような形で存続しているのは面白い。いわんや今、これを北方の雑草が地を覆う荒野で演奏をすることになろうとは。
このとき、平蔵はアイヌ人が奏するトンコリという楽器を見た。これはアイヌ人に伝わる唯一の弦楽器で、胴が細長く平べったくできている。弦は五本であるが開放弦のため音を変えることができず、五つの音の打楽器のような音を出す。原材料はエゾマツやイチイを使い、弦は鹿の足の腱やイラクサを細かくよったもので作られている不思議な音の楽器である。この他にもムックリと言って、口で奏する小さな楽器もあった。これらの楽器のもの悲しい音が、故郷への思いを誘っていた。
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