このノテトという集落は、北蝦夷地の最南端のシラヌシからは、江戸と津軽以上も離れているという。聞きしにまさるその広大なこと、驚くばかりであった。ノテトの集落の首長の名はニブヒと言った。ニブヒによると、それから先へ行くには冬を待ち、凍結した海の上を歩いて行く他にはないという。その二日後、ノテトからさらに北のナニオー(いまのロシア名でルポロボ村)という地に着いた。ここは和人が今までに行った北蝦夷地での最北の地であって、現地人の家がわずかに二、三軒という所であったが、この陸地はまだまだ北に続いていた。
ナニオーは、ノテトよりここまでの間で北蝦夷地と東韃地(アジア大陸)とが相対する一番狭い所である。波は静かで、小さなサンタン舟でも十分に海を渡れそうに思えた。しかしここより北の地に行くとまた北海が開けて潮水が北に流れ、怒涛大に激起するので舟での航行は無理と判断、山を越えて東岸に出ようと計画した。しかし案内のアイヌ人が反対したため、やむを得ず船を返し、ノテトに帰り着いた。舟がだめなら陸路でとも考えたが、陸路も湿地が多く道らしき道もない地域であるというから、残念ながら進むことが出来なかった。その時期、ナニオーから北では、まだ流氷が残っている箇所があるとのことであった。
このナニオー一帯には蚊が非常に多く、内地の薮蚊より一回り大きな手強い蚊であった。実は小用をするために前をはだけると、この蚊がいっせいに男のナニをめがけて襲ってくる。聞くところによると、この蚊にさされた痕は、一~二日後から腫れてくるという。
『此処蜉蝣、蚊の多き事、実に糖粃を散ずるが如し。人の面、目、手足に集附して厭べきに堪たり。然れども、昼の内のみにして夜陰其所在をしらず』(東韃地方紀行巻の上)
間宮林蔵らはナニオーで東楞哩(とうりょり)という清人に会った。北蝦夷地が大陸に連なる半島か、はたまた島かの視認はできなかったが、東楞哩は「島だ」と言っていたという。また土地の酋長が海峡を渡り、黒竜江の支流の デレンにまで足を伸ばしていることから、島であることが確認できたとしている。しかしこの先の北蝦夷地の東北の端は、山海の危険地帯が終わりなく続くところであって、僅かな人が住んでいるだけであり、実際のところはよく分からないという。
閏六月二十四日、二人はノテト湾を出発し、山々を目当てに方角を測り、略図ながら地図を作りながら南下、クシュンコタンに着いたという。
二人の見聞によると、北蝦夷地の北部にはギリヤーク、中部にオロッコ、南部にアイヌとされる人が住んでおり、ギリヤーク(自称はニブフ)の肌の色は和人並みであるが毛が濃く、主として漁労に従事しているという。アイヌ人は知っての通り多毛で顔の彫りが深い。そのほかにもサンタン人がいるが、彼らは、黒竜江下流に住むオルチャ(ウリチ)人で、比較的肌の色は浅黒く、のっぺりした一重のつり上がった目をしているという。サンタンというのは、ギリヤークの言う「ジャンタン」をアイヌ人が訛ったものであると言う。サンタン人は、アイヌ人に対しては横暴であるそうである。
北蝦夷地の冬は吹雪の日が多い。冬には海に厚い氷が張るので、徒歩で海を渡って韃靼国などと交易をしているという。しかも間宮林蔵らはアイヌ人らが氷から氷に飛び移ってアシカやアザラシなどを生け捕る様子を見、その敏捷な動作に感嘆したという。ここに夏はなく、六月だけはやや春のようで百花がことごとく開花する。晴天の日が最も多いのは秋であるが、この時期は台風の多い季節でもある。また年間を通じ最も寒い二月の平均気温はマイナス一五~マイナス一七度、最も暑い八月でも北部は一〇度、南部で一六度程度であるという。
この間宮林蔵と松田伝十郎がクシュンコタン滞在中に話す冒険談は、平蔵らの血を湧かせた。しかもこの旅の間、一人のロシア人とも会わなかったという。そのことから、もし唐太が島であれば、ロシアと境界で揉めることはあるまいと思った。
次いで会津藩士は間宮林蔵らの指導で台場の再構築を始めた。つまり大筒をもっと後方に下げ、防護の盛り土を高くしたのである。彼らは、よくロシア船の戦法を知っていたから、彼らの意見を採り入れた。そして閏六月二十日、二人はシラヌシを経て宗谷に旅立って行った。
会津藩士は、その後も厳しい戦闘訓練に明け暮れていた。この寒い任地にとどまること約三カ月、心配していたロシア船も現れなかった。間もなく海を氷らせる寒い冬がやってくるので、その前に本国への撤退命令がもたらされた。
七月二日、命令によりルオタカから撤収した原捷重が、部隊を率いてクシュンコタンに帰還した。残りの兵は、残務を整理した後、日向三郎右衛門が連れてくる予定であった。十五日、間宮林蔵がクシュンコタンに戻って来た。あの松田伝十郎は、江戸へ戻って行ったという。
「松前を往復するには随分早いではないか」
驚いて聞く平蔵らに、間宮林蔵はたまたま宗谷を訪れていた松前奉行・河尻肥後守に再度の探検の許可を受け、松前まで行かずに十三日に宗谷を出発して来たと言う。これからトッショまで北進すると言う間宮林蔵の舟を、大歓声を上げて全員で見送った。
「これから言語を絶するほどの寒さの中に、日本の領土確定のためにアイヌ人を供にしてはいるものの、たった一人で出発するとは」
間宮林蔵の乗った舟は、鼠色の空と海の間に小さくなって消えていった。
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