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『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2009.05.25
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  アイヌの一般人は豊かではない。例えば鳥かごや獣檻さえ持たない。もっとも貴重とされるのは鶴である。アイヌ語でこれを加毛伊知由歩加(カモイチユホカ・カモイは神の意)と言う。丁度中国で言う神鳥と同じ意味で、この鳥ははじめて男女に交接の道を教えたと伝えられる。わが国でミミズクやセキレイを貴んで神鳥と言うようなものであろう。
「最上徳内によると、この鳥は幕府に献上されたことがあったがあまり喜ばれなかった。形状や毛色に特に変わったところはなかったからであろうと言う」
ある人がそう言った。
 陣将は鶴を買い求め、藩公への土産とした。
 八月六日、男女数人が鶴を持って見送りに来た。この鳥の真似をしながら酒を飲み、そして酌み交わしながら別れを惜しみ、涙を流し、泣きながら立ち去った。久しく飼った家禽(かきん)を一旦知り合った人に渡すことで、悲しみの情を表すのだという。人に心の限りを尽くすという、これこそが彼らの人情なのであろう。
 一行は勇払川を出発した。林の中の平坦な砂道を通り抜けた。一方で陣将は僅かな水の谷川に舟を浮かべ、東湖に入った。東湖の名は比比(ペッペッ・苫小牧市美美のウトナイ湖=川また川の意)である。これも周辺の地名からとった。東湖は西湖に比べて小さい。四面は皆、ヨシキリ、コモ、ガマに覆われ、溢れた東湖の水は勇払川の下流に流れ出る。
 このあたりから、はじめて銭の使われているのを知った。またこのあたりのアイヌ人は巧みに模様を彫刻し、金銀を散りばめて玩具や粥器物を製作する。この日、勇払川で捕れたという、変わった鼠を手に入れた。千歳川が出所だと言うが、どうも北蝦夷地から来たものだと言う。これより道を登ると里程標があった。勇払川の河口に泊まった。
   注・東湖、西湖はどこを指していうのかよく分からない。『終
     北録』の文脈から東湖にウトナイ湖、西湖に丹治沼を比定
     した。
 八月七日、海岸に沿って進行する。見渡す限りの西の人家は、皆、葦で屋根を葺いていた。アイヌ人たちはここに常には住まず、寄せ場人足として住んでいるという。正午、古伊刀伊別(コイトイベツ・苫小牧市小糸魚=波が入る川の意)に着いた。ここでは粟、稗(ひえ)、菜、大根が少々作られていた。
 やがて海の向こうの西南に、内地の山を望見した。
「おーい、あれは南部の山ではないか?」
「そうだな、この方角では蝦夷地ではないな。間違いなく南部藩だ」
 もう誰もが、内地に戻ったかのように歓声をあげた。志良於伊(シラウオイ・白老郡白老町=アブの多い所の意)に入った。ここでは鰊、海参(いりこ)、鱒、鮭が獲れ、大根、煙草などを作っていた。ここの三十軒ほどの集落にもチャシがあった。

会津藩 白老チャシ

              志良於伊チャシ(HPより)


 ここに泊まる予定で時間の余裕があったので、平蔵はチャシへ行ってみた。南側から伸びている高さ二十間ほどの舌状の台地の先端に、それはあった。残念ながら遺構に類するものは見つからなかった。ここで戦われたシャクシャインの乱で、和人の犠牲者が九人、幌別でも二十三人、その他『鷹師、金掘の者百人都合二百十二人相果候事』であったと知った。その上ここで、密かに和人を呪詛する歌が歌い継がれていることも知った。

   くされ シャモ奴
    私を 騙して 一尋の 布切れも くれずに 逃げてしまっ
    た。
    するべきではない 神の ところでも 人間の ところでも 
    女は 神への祈り をば。
   呪(かし)りを 言うと 海の上に 大風が起こって
    くされ シャモ奴 乗った 船と一緒に 沈んで しまった。
                    (アイヌと日本人より)

 八月八日、海岸から山に入り、嶺を越えて再び海辺に出た。
 カムイエカシ・チャシ、名のついたはじめてのチャシである。このチャシはポンアヨロ川河口左岸の、海に面した要害の地であった。場所から言って、漁や航海の安全を見守る見張台としても使われたのではないか、と思えた。さらにこの川の対岸の段丘上には、カムイミンタル・チャシ跡があった。
 日暮れになって先行していた両城信八、平二の兄弟が迎えに来たのに会った。保呂便都(ポロベツ・登別市幌別=親の川の意)に泊まる。兄弟の話によると、幾吉丸は積丹に漂着したとのこと、また利尻島に難破した観勢丸は沈んだものの帆柱を伝って島に上陸したので死傷者は出なかったことが分かったが、大黒丸については依然その行方が分からないという。幾吉丸や観勢丸についてはよかったと思う半面、大黒丸についてはただ粛然とするのみであった。しかしまた、いい知らせもあった。
「殿軍としてクシュンコタンに残っていた丹羽織之丞隊は七月二十三日に千三百五十石積の政徳丸で出航、すでに松前に無事到着した」
 それを聞いて歓声が上がった。幸と不幸の知らせが一挙にもたらされていた。
 この幌別とは村の脇に川があるための名であろうか、アイヌ語で大水という意味だそうである。蝦夷には松がない。ここに来てはじめて黄色の茅、白色の葦の中に、青緑色に高く古人のように立つただ一株の落葉松を見つけた。

 

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50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。

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最終更新日  2009.05.25 08:32:22
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