八月十一日、有珠を出発、病人と荷物は、すべて舟に乗せた。全員陸行。道に沿って山坂の峻険な所に休憩所がある。参政が辺境を巡ったときに設けられたものだという。禮歩牟計(レブウンケップ・虻田郡礼文華=水などを掻(か)い出すの意)の手前の岬の先端に、カムイチャシコツがあった。このチャシの南、東、西は断崖絶壁になっており、まさに要害の地である。砦であったのであろう。その晩は、アイヌ人三十軒ほどの集落があり、出張会所のある礼文華に泊まった。
八月十二日午(正午)、礼文華を出発。保呂奈伊(ポロナイ・幌内=大きな川の意)・場所不詳)嶺を登る。東南に海を隔てて佐原山(場所地名とも不詳)を見た。嶺を降りると道に近い所に大蜂の巣があり、刺されないように枝を折って両手で払いながら進もうとした。しかし数人が通ったところで蜂に襲われ、やむを得ず林を迂回して通った。ともかく蝦夷地はろくな道がない。民家もないところもあるので道がある所はまだましであった。このため中途で日が暮れ、月明かりの中を進んだ。下働きの光輔が先行して宿舎に着き、数人の者を迎えに来させた。馬を引き、水壺や夕食を持ち、光輔もまた出迎えに来てくれた。陣将は騎行していた。その馬を引いてきた者が教えてくれた。
「自分はもと山越内のアイヌ人であったが東蝦夷が開かれたときに帰化した」と。
彼は髪を結い、髭を剃って衣は右前に合わせ、名は清吉と呼ばれるのを希望した。住居はアイヌ人のままであったが、言語や衣服は中国人のようであった。
八月十三日、陣将は疲れが酷く、昼過ぎに馬で出発した。他の藩士たちは先行して山越内に入ったが、ここには関所があった。関所は蝦夷、北蝦夷地ともはじめてであった。関所の門内に入ると役人たちが出てきて歓迎してくれた。もちろん、通行手形などの監察はなかった。
「大義」「ご苦労」などの声が飛び、その中を通る藩士は、誇らしさとともに、温かさを感じていた。
その晩は山越内に泊まったが、陣将は途中の志良利加川(シラリカ・二海郡八雲町=波が磯を越える状態の意)近くに宿泊した。夜中、大河原臣教と両城信八が、酒を持ってきてくれた。
八雲集落は和人の町から半里ほど離れた、遊楽部川が海に出る所である。オットセイ狩りが盛んな所で、オットセイが波に浮かんで昼寝しているあたりにはオロロン鳥や鴎がたくさん群れているので、静かに船を漕ぎ進めて銛(もり)を投げて捕るという。舟のへさきには、木幣(もくへい)で包んだ狐の頭を守り神として乗せ、嵐に遭ったり霧にまかれたりすると、「しっかり舟を守らないとお前さんも海に沈んでしまうよ」と言って安全に協力させ、また鴎神にも頼むと、鴎がかわるがわる舟の先に立って陸に導いてくれるという。
八月十四日、藩士が舟で出発した後、巳刻(午前十時)になって陣将は山越内に着いた。ここは中国人やアイヌ人との分界の地である。山越内はアイヌ語でヤムが栗、クシタヤナイは沢を意味する。この周辺には栗の多いせいであろう。蝦夷の地名は中国化するに従い漢字化されたが、そのために本来の意味を失うことになった。松前、弘前、秋田なども皆この例による。
またあるとき、ここの近くに住んでいた幕府下役人の秋山左仲が公務により箱館へ出掛けたが、風波が強く途中で舟が転覆して溺死した。殉職であったため、その子に襲官させたという話が残っている。
藩士たちは陣将の到着を待ち出発を延期した。陣将は舟で乃娜於伊(ノナオマイ・二海郡八雲町野田生=ウニの多い所の意)を出発した。はじめ舟頭は「天候が良くない」と言って出発を嫌がったが、後では良いと言うことになり、石倉(茅部郡森町石倉)に着いた。しかしその後、舟頭が言った通り風波が強くなったため、舟を捨てて陸行、鷲木(茅部郡森町鷲ノ木)に着いた。
八月十五日、海を行き、大小二つの嶺を過ぎた。その大嶺の上方、遙か南方の海中に一山が突起し平地が続いて蓮の茎のように見えた。これが箱館であった。嶺の下の山や谷の四方が開拓されたが、湿原はさらに広大であった。荒れた茅野の中に、田畑が見られた。前の箱館奉行の羽太安芸守正養が、奥羽の民を募って開墾させた所であるが、惜しいことに稲は実らない。
この日、舟人は荷物を舟に積み、牧場の人は馬を連れて陣将を迎えに来た。陣将は騎乗し、大野(北斗市大野)に泊まった。蝦夷には果物がないが、大野ではじめて梨を食べた。箱館産という。
「うまい」
誰もがそう言った。
三宅忠良孫兵衛隊長は、祐筆の安恵重庸を事務室に招いた。ここではじめて大黒丸を失い、利尻島に漂着した観勢丸の状況が知らされた。
十一の日、あの嵐の中で船頭が、「これでは船が転覆する」と
言った。西川重光、龍造寺隆虎が「われわれは船で松前に到達す
るという義務を果たしていない」と言ったので、全員が全力を挙
げて嵐から船を守ることを誓って持ち場を守った。また重光は、
「今、わが責務を果たせず、また兵の心配も取り去れず、尚かつ
船を失うなどということはできない」などと口には出さずに考え
ていると俄に船が大岩に打ち付けられ、船体が二つに割れた。そ
れでも帆柱が倒れて岸に掛かったのを幸い、これを伝って全員上
陸し、一人の死傷者も出なかった。皆、これは神助かと喜んだ。
着いたのは利尻島であった。ここを守備していた梶原平馬隊の救
助を受けた。
宗谷出港の予定日を知らされていた梶原隊は、船団がこの嵐を
どこかで避けているものと思っていたが、それでも万が一をおも
んばかって、嵐の海上の監視を強めていた。それもあって大船が
一艘、大波に揉まれて島に近づいているのを早くから見つけ、そ
のために救助活動が円滑に進み、上陸に際して犠牲者を出すこと
がなかった。また山岡監軍や丹羽能教によると、その後、利尻島
に三艘の救援船が仕立てられて新潟港と酒田港へ向かったが再び
大風に遭遇した。千四百五十石積みの大栄丸は利尻島ヲツチ(鴛
泊=岬の根本の入江の意)に避難したがその後再出港、佐渡赤泊
に漂着した後自力で新潟へ入港した。九百石積みの宝神丸は利尻
島トノトマリ(本泊)を再出港、飛島(山形県)に漂着後酒田港
へ入った。そして全真丸(五百石積)は佐渡島小木に漂着後、出
雲崎港へ到着し、病人と重傷者については別の船で松前に送られ
たという。
関場友吉は、船で帰途につく寸前、風土病にかかって倒れ没し
ている。兵舎の傍の硬い土を掘って、懇ろに葬った。藩兵の一人
は二度とこの島に来ることはないだろうと思い、せめてと髪を切
って懐に入れ、こう呟いたという。
「寒い所に一人で淋しいだろうが、お前の髪はわしが故郷へ連れ
て行くぞ」
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