平蔵も、計り知れない衝撃を受けていた。会津に戻ったら玄宰にこの蝦夷地での経験を話し、藩の軍事力強化の提言をする積もりであったからである。ロシアの砲撃により破壊された集落や集会所。上陸して来たロシア兵の戦法と兵器の力を聞いて、彼らの力をひしひしと感じさせられた。おそらくこの後、相次いで日本に来るであろう、外国に対抗できる力を会津藩としても持つべきだと考えていた。
──御家老なら実行してくれる筈。
平蔵はそう考えていた。アイヌ人たちのチャシに対する、血を吐くような思いを聞いていた。もし会津藩が、仮に戦いによるものではないにしても、城を失うことがあれば藩そのものの存在を否定されることであろうし、自分たち藩士の立場をアイヌ人に重ね合わせることもできた。そうならぬためにも、会津藩の軍事力の近代化と拡張は、どうしても必要なものと考えていた。チャシが抹殺されたように自分たちも城を失うなどということは、絶対にあってはならぬことである。
八月二十六日、青森を出発、巖城(青森県岩木山・一六二五m)を左方に見た。巖城は津軽の名山で、南部の巖鷲とともに並び称される。郷土の諸山とその高低を比較すると、飯豊山と磐梯山の間になる。その晩は黒石に泊まった。
九月七日、遠くに鳥海山を望む。すでに純白であった。三年前の六月四日の夜九ツ時、この山が大鳴動を起こし、七日間も鳴り続けたという。この日、噴火とともに大地震が発生し、二日間にわたって震動して山麓一帯に広く大きな被害をあたえた。この地方の被害は「潰れ家二百戸、死者一八二名。」とあり、又、別の記録によれば「矢島藩御領分仁賀保にては、潰れ家十二軒、半潰れ十三軒、濁川村にては、潰れ家五軒、半潰れ二軒、熊の子沢に潰れ家一軒、長保田に半潰れ一軒、百宅村に半潰れ一軒、仁賀保御分家御領分には怪我人多数、死馬二十七頭」と伝えられている。小野を通過。古い伝説では小野小町の出生の地で、小町手植えの芍薬がある。院内に泊まる。
九月十四日、綱木嶺(米沢市)を登る。この南で奥・羽の境となる。この道筋に、高山、峻嶺がまた多いが、いままででもっとも大きかったのが国見(福島県伊達郡国見町)であった。次がこの嶺で、また次が箭立(青森と秋田県境)である。国見はこの嶺とともに山勢が緩やかで長い。ただ箭立は最も嶄絶(ざんぜつ)している。仙台の南北は平野で豊かであり、盛岡以北は大半がみな山、不毛で蝦夷と異ならない。会津と津軽は地勢に例えると長蛇の首が会津、尾が津軽となる。首と尾を西に向け、腹に羽州を抱えて重山(奥羽山脈)で区切ると、この二国は気候の境界線となる。
最後の峠・桧原峠を下り、桧原村に泊まった。ここは昔、伊達政宗が会津藩に攻め入ってきたとき、ここを守っていた領主の穴沢氏が、断固守り抜いた土地であり、藩領である。心なしか皆の顔がほころんで見える。
「まもなく故郷だ」
九月十五日、若松を前にして、平蔵の想いが走馬燈のように頭をよぎっていた。若松で平穏に暮らしていた自分が、蝦夷地で和人によるアイヌ人への圧迫とロシアによる攻勢を知った。異国同士の対立や抗争の予想もできたが、これからはそのような異国からこの国を守る時代となる・・・。想いを巡らす中で、その晩は塩川に泊まった。藩侯の使番・原則賢が町外れまで出迎えて労ってくれた。
九月十六日、ついに若松に入った。出迎えの町の人たちの顔が、優しげに見えた。
「ここは会津だ。故郷の若松だ」
それは思い起こすのも苦痛な、長道中であった。
十月十日、後軍が松前から帰った。
十一月二十八日、中軍が宗谷から戻った。
十二月十五日、幕府は内藤信周、北原光裕に衣服をそれぞれ五着、丹羽能教、日向次明、梶原景保、三宅忠良に各々三着を贈ってたたえた。会津藩の北方警備の派兵は、これをもって正式に終了した。
会津藩では北方警備で、遭難者以外にも多くの病死者を出している。その多くは蝦夷地の風土病『水腫病』によるものであった。
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