ロ シ ア、南 下 を 策 す
高津平蔵は北方警備から戻ると、直ちに密命の復命書を書きはじめた。それには詳細につけていた日記が、大いに役立った。それでも一ヶ月はかかったであろうか、平蔵は書き上げた復命書を、北蝦夷地での直属の上司であった北原采女光裕の私邸に持参した。
「私がここで御家老様から命令を受け取りましてから、ほぼ一年になります。この部屋でこうしていると、あの北蝦夷地でのことがまるで嘘のように思われます」
「そうだな、おそらく誰もが、北蝦夷地へもう一度行ってみたいなどとは思わないであろう」
采女はそう言うと小さく笑った。その手の上には、平蔵の復命書があった。黙読していた采女はそれを閉じると平蔵に言った。
「よく書けておる」
「ははっ」
「ただな、平蔵。書いたその方が気付いておろうが、この書が役に立つかどうかは、これからの世の流れにもよる」
采女はそう言うと、背後の床の間の隅にそれを納めた。
「この度、津軽藩は五万石から十万石に、南部藩は十万石から二十万石に格上げされた。田中様の先見の明には驚くべきものがあったな」
「すると御家老様。わが藩も頂けるのでしょうか?」
「まあいい、それは口にするな。もしそういうことがあれば、それこそ、その方の書が役立つときになる」
そう言われて平蔵は感激した。采女が認めてくれたと感じたのである。
平蔵は深く頭を下げた。
この翌年の文化六(一八〇九)年、平蔵が北方警備に出発する以前より編纂に参加していた『新編会津風土記 一二〇巻』が完成した。そしてこの年、あの間宮林蔵が単独で北蝦夷地に渡って海峡地帯を踏破し、北蝦夷地が島であることを確認したことを知った。
──間宮殿は大した仕事をなされた。ここが島であることは、わが国にとって大きな利益をもたらすに違いない。
平蔵はそう思った。そしてあの蝦夷地でのことを書き留めてみたいと思った。平蔵は藩校・日新館で教え、また新編会津風土記の編纂にも関連したように、ものを書くことには慣れていた。仮の表題は終北録、副題として戍唐太日記(じゅからふとにっき)とすることにした。戍は守、護の意である。藩の仕事の合間に、この平蔵の戍唐太日記は少しずつ進んでいた。ところがまだ脱稿しないうちに、備後福山藩の菅茶山翁の訪問を受けた。菅茶山は儒官で備後福山藩校・弘道館および誠之館の教授をしていた。
「高津殿。これは立派な書だ。会津藩が北方警備から戻ってきたことを知ってここまで訪ねて来たが、遠い道を厭わなかった自分に感謝している。どうであろう高津殿。この書をお借りできないであろうか」
「いやぁ茶山殿。これはご覧の通り未成でございます。それをお貸しするなどとは、とてもとても」
「そうは申されても、今までに書かれたことは頭にある筈。お借りをしている間にもその先を続けられれば、良いではありませぬか?」
手を横に振る平蔵に「時間はかけませぬ。勉強のために是非」と言って粘っていた。平蔵はついに折れた。そう時間をかけないことを、条件としたのである。平蔵としては、藩での仕事が多忙になることの予感もあったからであった。
新編会津風土記の編纂を終えた翌・文化七(一八一〇)年、会津、白河の両藩が相模と房州の沿岸警備を命ぜられた。そのうち会津藩には三浦半島の突端の三崎から浦賀、走水沿岸を、さらには観音崎、浦賀白根山、城ヶ島安房崎の御台場を担当することになった。相次ぐ遠征に、藩は総力を挙げていた。
文化八(一八一一)年、十一代将軍家斉の襲職を祝って第十二回朝鮮通信使三三六人が訪れてきた。平蔵は師の古賀精里に随伴して対馬で応対した。これが最後の通信使となったが、そのときの朝鮮の書記官・金善臣、李文哲に日新館の文詩を贈り、時の実情を筆述して対遊日記を著した。このような多忙に紛れ、手元に戍唐太日記がないこともあって、平蔵は自然にそれを忘れるようになっていた。
注 平蔵は対遊日記の他にも溜陽詩史、詩文集などの文書を残
したが、戊辰の兵火に失われた。なお一緒に対馬に行った
佐賀藩の草場佩川の著した津島日記は、現在佐賀大学に残
されている。
この年、オホーツク海沿岸を測量調査中のロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン以下八名が国後島のトマリで幕吏に逮捕され、松前に幽閉された、という知らせが入った。
──国後島と言えば仙台藩の管轄だな。
仙台藩も大変なことだと思いながらも、会津藩がお役御免となっていることに安堵はしていた。しかし相模の沿岸警備に出兵しているからと言って、再び会津藩にも北方警備が下命されないという保証はなかった。
『高田屋嘉兵衛が国後島近海でロシアの軍艦に捕らえられ、カムチャツカへ連行された』という知らせが入ったのは翌年のことであった。平蔵としては北方警備の経験から、蝦夷地からの情報には重いものを感じていた。
文化 十(一八一三)年、ロシアに捕らえられていた高田屋嘉兵衛や中川五郎治が松前に戻り、ロシアの情勢を報告した。
「ロシア皇帝は、ホオシトフがわれわれを拿捕したことを知らない。それにロシアに戻ったこれらの指導的軍人は既に皆死んでいて、国民にも知らされていない。しかしながら箱館鎮台がゴローニンらを捕らえたままにしているのは問題であると思う。そこで幕府の役人の印璽書をとって来て無罪を証明させて釈放し、彼らをロシアに帰還させ、ロシア皇帝に会見させて平和を図らせてはどうか」
間もなく高田屋嘉兵衛の仲介もあり、幕府がロシア政府の陳謝の意を認める形でゴローニンらが箱館より帰国した。しかしそれらのことを聞いても、平蔵は安心できぬと考えていた。
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