慵 齋 處 士 墓 碑 銘碼爻
處士諱誠之字道甫號慵齋姓小野寺氏處士修爲野三春藩人系出北畠顕家父諱忠閭母某氏以寛政四年二月某日生生而英異長志韜●(左に金、右に今)之學之會津就田中某及山寺某學有年處士猶未爲以足也於是之江戸従平山潜于龍清水赤城質問疑義又遊渡邊是保之門學戚家兵法又就松平藍園于者學武門典故時有大河内潜龍于者處士聞其傳澹齋長沼先生之學固請入其門潜龍于乃授以兵要録及三子合傳三子者澹齋之高弟三枝碎玉軒井上勿齋宮川忍齋也處士受教堅苦刻勵有年潜龍于大喜遂傳授握奇八陣解云初處士仕於藩侯以兵學教督藩士天保九年某日母死執其喪哀過禮服除出仕居無有故去藩之信濃潜居浅間山眞楽寺期年將薙髪遁世也藍園子遙聽之遣人止之最以勿廢武事云處士翻然反干江戸客於藍園子期年間潜龍于病卒訃至處士慟哭曰三子合傳其泯乎於是出傳書讀之沈潜反覆若將以終身十二年其日濱松侯聞其名聘之教督藩士居五年以病辭去遂西遊之津之明石之久留米迄三子之子孫門流者得四箇秘訣忍齋傳書於是合傳之説渙然氷解矣秋赴崎陽就大木忠貞者講究高島流西洋●(左に碼、右に爻)術焉客中校正傳書経睫秘録蓋應薩摩侯之矚云四年秋又反干江戸復依藍園子嘉永三年某日應佐倉侯之聘教督藩士居二年辭去贈以終身月俸焉是歳浴伊豆温泉又反干江戸時年六十余深憂握奇八陣解末瑩乃潜居品川東海寺内日夜研究終成稿名曰握奇八陣解隔爬云萬延元年四月吾藩君土屋公欲改革兵制則遣人聘之於是處士始來土浦藩士受業者多而其長進者彬々乎輩出矣本藩之革兵制處士與有力焉處士多病概臥床一日座静室從容屠腹門人大驚問故不答 實文久元年辛酉四月十二日也享年七十公以特命厚葬於城西神龍寺門人故舊會者多藍園子亦遣人臨葬焉處士嘗著攻戦新論垂死謂門人藤井重遠曰此書無可傳者矣遂與他著束而投火云處士以家兄顕蔵之奉祀游於四方不蓄妻妾終無子爲人朴忠而沈勇常欽慕後藤基治之爲人嘗得其佩刀寳愛而不離身其平居思舊主不巳堅守不事ニ君之義遂以處士終矣歿後三年大久保親正若林敬勝與其同門人關口穆木内渡等商議欲立碑墓側以不朽處士求銘於余余與處士有舊不可辭乃据鈴木重禮所撰之行状雑以余所見聞而叙之銘曰
名將之裔 吾欽其風 夙學韜●(左に金、右に今) 晩得正宗 毅然沈勇 醇乎朴忠 於戯慵齋 奈何蔵宮 波山在西 霞浦在東 劉石干此 以記始終
元治元年甲子春三月
土浦藩學院教授兼侍講 中田正誠撰 「土浦小史」所掲
なお慵齋處士墓碑銘には、次のような前文があったという。
兵學の賓師なり、土浦外西町藩宅にて自刃す門弟交々宿直なす
も当番のもの翌朝に至りても知らす、藩主遺骸を厚く神龍寺に葬
りたり、説を為て曰く或は桜田一揆に加盟せるならんと、後日家
卿へ送りたる書翰により桜田事件の参謀たるも其時熱病に罹りて
立つ能はさりしと、風説果して眞実となれり、左記の墓碑銘は種々
の事情ありて立つる能はす僅かに「慷斎野處士之墓」なる長方形
の小碑あるのみ
この前文中に『桜田事件の参謀たるも』とあることから、慵斎が『桜田門外の変』の参謀であったと思われる。しかるに『陰の首謀者』と伝えられたのは、『桜田門外の変』に参加しなかったこと、またはできなかったからであろうか。歴史上ほとんど知られていない小野寺慵斎の行動に関しては、謎めいた部分が多い。
この小野寺慵斎については、前述したようにHP『新・小野寺盛衰記』を主催しておられる仁藤雅也氏による多くの資料のお世話になったことを考え合わせて、氏のHPの中の『近世の小野寺氏』中『三春藩小野寺氏』を参考になされることを強くお薦めする。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/)
なお三春歴史民俗資料館の藤井康氏によれば、小野寺慵斎の父の小野寺忠閭は、小野寺舎人の父で幕末三春藩の家老小野寺市大夫の先祖でもある。ただし忠閭と市大夫が、どのようにつながるかは明確ではない。
ちなみに、小野寺忠閭の経歴は、宝暦十三(一七六三)年十二月に初めて藩主に御目見し、明和三(一七六六)年二月十六日元服、同七年六月二十九日御小納戸、安永二(一七七三)年九月十六日御小納戸から表中小姓、同三年十二月二十八日家督相続、本城入番、同七年十月十五日御刀番、同十年三月十八日辞職、寛政三(一七九一)年二月十八日大目付、同五年一月二十三日辞職、享和三(一八〇三)年一月二十一日没となっている。
この『桜田門外の変』は、三春町史にも出てくる『フランス人事件』、『三春藩江戸家老暗殺事件』そして戊辰戦争後に行われる筈であった『敵討ち』に変化していく。しかし明治政府により敵討ちは禁止された。このためこの事件は新たな展開をはじめる。
ここで、桜田門外の変の起きた日から約一ヶ月後に記録された舎人自身による文書を、HP『新・小野寺盛衰記の南梁年録』より転載する。三春藩が内桜田門を警備していた唯一の証拠である。その文意は、『腹痛を起こした箱舘奉行の御調役松永半六に便所を貸したが、その後気分が落ちつき帰って行った』というものであった。
安政七年 (南梁年録)
今申刻前箱舘奉行御支配御調役松永半六様二丸御詰所より御退出
之節御腹痛ニ付便所致借用度當番所ヘ御越被致養生處追々御快方
の趣ニ而御引取候此段御届申上候以上
閏三月十一日
内桜田御門當番
秋田安房守内
小野寺舎人
◇ ◇ ◇
『小ぬかの雨』の初出は、二〇〇五年第五八回福島県文学賞に応募した『フランス人事件』である。賞には至らなかったが、福島民報よりその選評を引用する。
松村栄子氏 橋本捨五郎『フランス人事件』は時代のムードをよく伝えて巧みだし、題材も興味深いが、登場人物に名前だけがあり人格が見えない。人物造形が課題だろうか。
田村嘉勝氏 まずは過去に準賞を受けている橋本、いわせ両作品の正賞への可能性を論議した。前者(小ぬかの雨)はよく調べられた素材・時代性の面で優れているが、やや独善的で伝わりにくさがあると評価。(中略)両作品の正賞受賞は見送られた。
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