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カテゴリ:街 こおりやま
『まほろば』とはどこなのか?
1 イザナギ・イザナミの命(みこと)が『天(あま)の浮き橋』で地上の泥を『天の沼矛(あまのぬまぼこ)』でかき混ぜ、滴り落ちて生まれたのが四国、九州、淡路、対馬、壱岐、隠岐、佐渡、本州とされています。しかしここに佐渡があることから、本州は新潟県以南を想定したと想像されます。 2 日本武尊は、蓬田岳、竹水門(たかみかど・南相馬市)で戦っているとされることから、大滝根山、鬼の城山(いわき市川前)の伝説も日本武尊ではないかと想像できます。 3 四道将軍は第10代・崇神天皇10(紀元前88)年、都から四つの方向に派遣されたと伝えられる天皇一族の将軍たちで、北陸道に派遣された大彦命(おおひこのみこと)は越国(こしのくに・新潟県)から、武沼川別命(たてぬまかわわけのみこと)が太平洋側から、また丹波には丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)、そしておとぎ話の桃太郎のモデルとされる吉備津彦命(きびつひこのみこと)が山陽道に派遣されています。大彦命と息子の武沼川別命がそれぞれに内陸部に入り、兵を進めて諸国の豪族を征服していきました。そしてこの2柱の神が落ち合った所ということから相津(会津)と言われるようになったと伝えられています。この太平洋側から会津への途上にあたる三春町上舞木の直毘(なおび)神社には、武沼川別命が通ったことを示唆する由緒があるそうです。 4 魏志倭人伝に書かれている多くの国の名の中に、躬臣(くし)国、邪馬(やま)国、已百支(いはき)国などの名があります。躬臣(くし)は越(こし)を意味するという説がありますから、それを了として、邪馬は耶麻、已百支は磐城と考えてもいいのではないでしょうか。 5 その物証ともされる三角縁神獣鏡が会津若松市の大塚山古墳で発見されています。また前漢鏡が三春町実沢の高木神社から見つかっています。 6 郡山市田村町に東北最大の前方後方墳(大安場古墳)が築造されていますが、邪馬台国に敵対した狗奴国(くぬこく)との関係が想像できます。 7 蝦夷の南下を防ぐ施設として作られたという渟足柵(ぬたれのき・新潟市沼垂)から白河の関や勿来の関を結ぶ線もあります。 これら7件を佐渡から東に辿ってみますと、新潟、会津若松、耶麻、三春、いわきとなります。『まほろば』とは、この時代の地理感覚からみて、これらの線の南であったと考えたいのですが・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.03.01 10:11:41
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