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カテゴリ:街 こおりやま
日本の原子爆弾開発
太平洋戦争の末期、米軍は広島と長崎に原爆を投下し、非戦闘員を含む多くの人々を焼き尽くし、その惨状には目に余るものがありましたが、日本でも二つの原子爆弾開発計画が進行していたのです。陸軍の「ニ号研究」(仁科芳雄博士の頭文字)と海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字)です。 日本でも昭和13年からウラン鉱山の開発が行われ、太平洋戦争のはじまる前年の昭和15年には、理化学研究所の仁科芳雄博士の他に東京帝国大学、大阪帝国大学、東北帝国大学にその研究を依頼しました。 昭和16年4月、陸軍航空本部は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託しましたが、その12月に対米戦争がはじまったのです。昭和17年アメリカではマンハッタン計画が実行に移され、その後を追うかのように、翌年の昭和18年1月、理化学研究所の仁科博士を中心にして「ニ号研究」が開始されたのです。 この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、昭和19年3月に理化学研究所構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まりました。しかし同年7月、マリアナ諸島のサイパンが米軍に占領され、本土空襲が激しくなったことで、軍部は原爆開発を急がせました。 昭和20年、仁科博士の門下生で後に日本化学会会長となる飯盛里安博士が、第八陸軍技術研究所の協力の下、実験室と理化学研究所希元素工業扶桑第806工場が石川町で稼働をはじめたのです。そして同年4月からは石川中学校(現・学法石川高校)の3年生約180人を3班に分けて近くの飛行場整備とウラン鉱石の採掘に動員したのです。 元小学校校長で当時14歳だった方の証言によれば、シャベルやつるはしで石を取り出し、もっこで運んだと言われます。ウラン採掘場は町内に6カ所あったとされますが、戦後は農地造成や宅地開発が進み、採掘場の遺構が残っているのは塩ノ平地区だけだそうです。 「炎天下でしかも腹が減っているのに、どうしてこんなことを……」と、不満を募らせる中学生たちに、あるとき軍刀を携えた将校が来て言ったそうです。 「君たちが掘った石で爆弾を作る。マッチ箱一つの大きさでニューヨークを破壊できる」 その方は「半信半疑だったけれど、とにかくがんばろう」という気にさせられたと証言しています。しかし、そこで採掘される閃ウラン鉱、燐灰ウラン石、サマルスキー石等は少量であり、ウラン含有率も少ないものであったといわれます。そのことは学生たちには知らされませんでしたが、原子爆弾に必要なウラン235の確保は絶望的な状況だったのです。 他方、海軍のF研究も昭和16年5月に京都帝国大学理学部の荒勝文策教授に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、昭和17年には核物理応用研究委員会を設けて京都帝国大学と共同で原子爆弾の可能性を検討しました。こちらは遠心分離法による濃縮を検討したそうです。 当時は岡山県と鳥取県の県境に当たる人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、昭和18年から朝鮮半島、満洲、モンゴル、新疆でもウラン鉱山の探索が行われたのですが、はかばかしい成果がありませんでした。そこで海軍は、中国の上海におけるいわゆる闇市場で130キログラムの二酸化ウランを購入しながら、当時チェコのウラン鉱山がナチス・ドイツ支配下にあったので、ドイツの潜水艦(U234)による560キログラムの二酸化ウラン輸入も試みたのですが、日本への輸送途中でドイツの敗戦となり、同艦も連合国側へ降伏してしまったのです。 いずれにせよ海軍も、原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況にあり、技術的にも、京都帝国大学の遠心分離法は昭和20年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった段階だったのです。また陸軍による理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10キログラムを製造することは不可能と判断されていたそうです。 東京はマリアナ諸島を基地とする米戦略爆撃機B29の度重なる空襲で灰燼(かいじん)に帰し、5月15日の東京大空襲では、理化学研究所の研究施設、さらにはその中枢部ともいえる熱拡散塔が被災したため、仁科博士の原子爆弾の研究は実質的に続行不可能となったのです。この時点で仁科博士は、原子爆弾製造をあきらめたといわれますが、その後、地方都市(山形、金沢、大阪)での再構築がはじめられたのです。 ところで仁科博士はサイクロトロンまでは作りましたが、膨大な電力を必要とするウラン濃縮に、日本の現状では無理である事を悟りました。仁科研究室はもともとが基礎研究であったのに陸軍の指令であわてて取り組んだウラン濃縮はまだ実験段階、しかも肝心のウラン鉱石が入手できないでいたのです。 日本の原子爆弾開発は最も進んだところでも結局は基礎研究の段階の域を出ていませんでした。そのため仁科博士は、「原子爆弾は完成せず、この戦争には間に合わないだろう。少なくとも日本では無理だ」と予想しました。それなのに陸軍から巨額の予算をもらって研究を続けたのは、日本の物理学のレベルを高めるため。そして若い学徒を戦場に送らないためだったと言われています。 同年6月に陸軍が正式に研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切ったため、ここに日本の原子爆弾開発は終焉を迎えることになったのです。8月、「広島に新型爆弾」と聞いた仁科研究室の山本洋一博士は、ウラン埋蔵量などをもとに、アメリカはすでに千発、原爆を完成させている可能性があると計算したのです。この計算結果は昭和天皇の耳に届いたといわれることから。終戦の決め手になった可能性もあるとされています。 しかし石川町での採掘は玉音放送のあった8月15日まで続いていました。戦後になって、米軍が鉱石や機器を持ち去ったと地元では伝えられています。工場跡地は歴史民俗資料館が建っている場所にありましたが、当時をしのばせるものは、わずかに残った石垣にしかありません。 仁科博士が戦中から、陸軍には原子力爆弾の製造と称して資金を得、後進の育成や基礎理論の構築に情熱を注いでいた結果として、日本には素粒子論においては世界有数の研究集団が育っていたのです。 その結果、戦後、仁科門下の湯川秀樹、朝永振一郎博士らが、相次いでノーベル賞を受けるなど脚光を浴びることで実現しました。それにひきかえ仁科博士は表舞台に出ることはありませんでした。仁科博士は軍部との交渉を一手に引き受け、若手の学者たちをそこへ巻き込ませなかったです。そして原子爆弾製造を手がけた汚名を、自分一人で引き受ける覚悟だったと想像されています。 私は日本が原子爆弾を使わなくて、いや使えなくて本当によかったと思っています。日本が行った戦争にプラスしての原子爆弾投下では、とてもやりきれないことと考えるからです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.09.01 11:23:03
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