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2013.10.01
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カテゴリ:街 こおりやま
     消えた安積沼

 2006年、東大出版会が刊行した「日本の地形3 東北」に、人類誕生以前の遙か昔、本宮から矢吹へかけて大きな湖、『古郡山湖』があったと出ていました。教えてくれたのは、福島大学特任教授で郡山地方史のメンバーである高橋康彦氏でした。氏によりますと、市内各所から広い範囲で泥炭の薄い層が見つかっていますが、この泥炭こそが古郡山湖の水底であった証拠だと言われるのです。学術的にも、泥炭は沼沢地や湖沼などの湿原植物の繁茂する湿地に集積した分解不完全な植物遺体の堆積物とされていますから、それこそ動かぬ証拠だと思われます。ではこれらの水を塞き止めていた所がどこで、それが何故無くなったかについては、いずれ学者の先生方が解明されることと思います。

 さて郡山の安積沼は、古来歌枕とされてきました。しかし時代が経つにつれて、歌枕は次第に和歌で詠まれる諸国の名所旧跡のみについて言われるようになりました。ですから、地名の歌枕は実際の風景をもとに親しまれてきたというよりは、その言葉の持つイメージが利用されて和歌に詠まれていた面があるのです。そのため、その場に足を向けなくとも歌が詠み易くなり、多くの人に詠われるようになったものと思われます。

 現在、安積沼は無くなってしまいましたが、歌枕としての安積沼は、すでに913〜914に成立した古今和歌集に出て来ます。また無明抄には、郡山とも縁があるとされる橘為仲(長和三・1014年頃〜応徳二・1085年)が見たとして安積沼が出てくるそうです。しかしその他にもこの地を訪れた人たちがいたのです。能因法師(永延二・98   康平元・1058年?)、西行法師(元永元・1118〜文治六・1190年)、今井宗祇(宗祇・応永二十八・1421〜文亀二・1502年)、前田慶次(天文元・1532〜慶長十・1605年)などが知られています。その慶次が残した慶長六(1601)年の奥州米沢庄道之日記には『すか川を出、さゝ川、郡やま、高倉のこなたの野の中に、まわり十丈あまりのぬまあり其中に小嶋あり、里の長に問侍れバ、これなん浅香のぬまなりとかたる』と記されています。

 時代が下がりますが、二本松藩郡奉行成田頼直が寛政11(1799)年に著し、文政2(1818)年に一部を増補訂正されたという『松藩捜古』があります。この中に、宗祇の旅日記(廻国紀行)が掲載されています。そしてそれが、天保十二(1841)年、二本松藩の地誌として作られた相生集の中に転載されているのですが そこには。安積沼の大きさを示唆する次のような記述があるのです。

『やがて近くにいた人の案内で、山田の里へ行った。そこは海辺で何の風情もなく作られた草葺きの庵であったが、やむを得ずそこに泊まった。長月(9月)の10日あまりのことであった。山より吹き下ろす嵐のような風の音に混じって、鹿の声が近くに聞こえる。前を見れば、はるばると遠くまで見渡せ、その浪の上を更けてゆく空の月が浮んでいる。友を呼ぶのであろうか、千鳥がしばしばと鳴く声も、大変心に染み入るように聞こえた。これらのことは、今は亡き友、成田友鴎(明和元・1746年〜天保4・1833年)の松藩捜古の安積沼の頭書にある安積沼と言われるのは、今の日和田の東勝寺の後ろの田であると言う。四方の山襞の連なる中の窪んだ様子を見れば納得できる。山田の里は今の八山田村で、昔は八俣田と言われたが今の名になった。八山田は日和田村の沖の方に続いているが、八山田と日和田村の間には大山田、小山田という字の地もあり、蛇ヶ森という丘からその沼跡に来て見下ろすと、小さな池があった。その辺りには田が広がっているが、乾(北西)の方は菖蒲池(会津に行く丘道は狭く、南には荒池というのがあり、沼の名残の跡が多い)を境にして、南は大山田・小山田、東は八丁目村の間まで皆丘なので、成田氏の説の通りである。なお日和田の西の早稲原、堀之内などという所に行ってみると、西は額取山の麓となる河内村の滝から、夏出、長橋、上伊豆、下伊豆、堀之内、早稲原の7村を経て東八丁目村に来て三里ばかりの間、大体四周全部が低い丘に取り囲まれて大きな沼の形である。昔の浅香の沼の跡はここばかりではなく、この七か村全部が沼であったということで、緲満たる様子はまるで湖であり、千鳥が鳴くなどと猪苗代の湖のようであるなどと言われる。何時の頃か分からないが、八丁目村の低い山を切り開いて阿武隈川に沼水を落としたので今の七か村が表に出た。』

 ともかく海岸や干潟、湿原に多いと思われている千鳥がここに住んでいたということは、いかに大きな沼地であったかということになるのでしょう。またその相生集の中に年代は不明ですが、成田友鴎が、『(安積沼は)南は大山田、北は稲原、を巡り』としています。そこで片平町の滝をゼロ地点として二万五千分の一の地図の等高線で囲んだところ、この記述されている地名のすべてが沼の範囲として含まれているのには驚かされました。

 そして元禄二(1689)年、松尾芭蕉が弟子の曾良とともに日和田を訪れ、花かつみを『安積沼』周辺で探します。花かつみそのものを見付けることができませんでしたが、ここからも安積沼が存在していたことが確認できます。なお芭蕉が白河から須賀川に入る前に、『阿武隈川を渡る。左に会津嶺高く、右に磐城・相馬・三春の庄・常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず』と記しています。はたして『かげ沼』が安積沼と同じような事情で須賀川から鏡石にかけて残されたものか確証はありませんが、すでに吾妻鏡の建保元(1213)年五月九日の条に、『かげ沼』という記述があります。

 寛政十一(1799)年の『松藩(二本松藩)捜古』によりますと、『今の日和田の里、東勝寺の裏、山田(八山田)、大山田、小山田、にまたがるいささかの小池』とあります。ここに出てくる安積山宝珠院東勝寺は、平安時代前期(834年以前)日和田町寺池に開山、その後今の蛇骨地蔵堂に移転したのですが、慶長四(1599)年の大火で焼失、享保四(1718)年に再建されました。しかし現在はありません。

 このあたりは東側にある磐悌山や安達太良山と、西にある阿武隈川との間にある平野で、昔はそこら中に沼があったらしく、安積沼も、古くは安積の里にある沼というほどの意味で、現在安積山公園の碑が立っている場所だけが安積の沼というわけではなく、安積沼と呼ばれる所はいくつもあったようなことも聞きました。すると芭蕉は、安積沼と言う単一の沼を探していたのではなく、いくつかの沼を探し歩いていたのかも知れません。それらを考えればいま市内に残る多くの沼池跡は、『古郡山湖』の残滓なのかも知れません。

 関岡野洲良(やすら)の回国雑記標注(文政八・1812・年)には、『宝沢沼と近くにあった稲原沼という大沼が続いて安積沼とされていたがこれは古の歌に詠まれた実地ではなく、片平村より一里ばかり離れた湿地が安積沼の実地と思われる』と記述されているそうです。しかしこのことは、日和田から片平にあったとされる沼が、水量の減少により幾つかに分かれた、ということを示唆しているのでしょうか。察するに安積沼とは、古郡山湖が種々の条件の下に小さくなり、江戸期、新田開発などのためにそれが消えてしまったと考えてはどうでしょうか。

 ともあれこれらの記述から思われることは、すでに大きな沼は無くなって口伝、伝承の類いとなり、地形から想像できるということになっていたのではないでしょうか。

 いずれにしても二本松藩の時代、安積沼の水を阿武隈川に落として耕地としたとされますので、恐らくその工事をした場所は富久山清掃センター近くの藤田川の河口近くであったのではないかと想像されます。なお現地に行ってみると『寺池』という小高い地形の下に、広い田圃が広がっています。この『古郡山湖』が安積沼や『かげ沼』になり、やがて田になって消えていったとは考えられないでしょうか。



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最終更新日  2014.10.08 14:02:38
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