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2014.06.01
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カテゴリ:街 こおりやま
   天 皇 家 と 三 春 駒

 昔から日本にいた馬のことを、在来馬と言います。日本の在来馬は、古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された小形の馬とされています。現在「道産子」「木曽馬」「野間馬」「対州馬」「トカラ馬」「御崎馬」「宮古馬」「与那国馬」の八種類がいますがその数は減少しています。しかしこれ以外にも、三春駒や南部馬、三河馬、甲斐駒など絶滅してしまった在来馬も少なくありません。これら在来馬の特徴は体高が低く馬体重も軽いのですが、辛抱強く雑食性であるという特徴がありました。

 日本の在来馬は、古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された小形の馬とされます。純血種が絶滅してしまった在来馬には三春駒、南部馬など9種ありますが、純血種に近い野間馬(愛媛県)など8種の馬が日本在来馬として保護されています。西洋の馬が輸入されるまで三春駒は南部駒とともに有名な馬でした。

 古来三春は馬の産地でしたが、産業にまで育ったのは、三代藩主秋田輝季(1649〜1720年)の時代です。輝季が領内で産した七歳馬を四代将軍家綱へ献上して以来、参勤交代の度に三春駒を献上して全国に知られるようになりました。その後、三春藩では仙台や南部藩から良馬を買い付けてかけ合わせて馬の名産地となったのです。江戸時代の後期から近代にかけて、田村地方産の馬は名馬も多く三春駒と呼ばれました。

 天保9(1838)年に書かれた臼杵藩(大分県)江戸藩邸日記に、『秋田様御国ニて出来候由三春木馬、此度左衛門尉様御手ニ被為入候由、右ハ左衛門尉様より御奥様ヘ被進候』とあります。ここに出てくる左衛門尉は、中津藩(大分県)前藩主奥平昌高のことで、臼杵藩主稲葉幾通正室の父親になります。この記事から、父親が娘に三春木馬(三春駒)を贈ったことが分かり、三春駒が江戸で販売されるなどしていたことがうかがえ、同時にそれが贈答品として意識されていたことが知られます。

 明治初期に日本を訪れた欧米人たちは、日本の在来馬が世界で最も進化していない馬であるということで本国に持ち帰ったという逸話もあります。しかし明治政府が、「富国強兵政策」の一環として軍馬や農耕馬を強くするために外来種を輸入し、品種の改良を行ったことも在来馬の数を激減させた理由の一つでした。それでもかろうじて残った在来馬は、離島や岬の先端など交通が不便な所に前述した八種類だけが残ったのです。

 三春駒は絶滅してしまったので、どのような特徴のある馬であったかは分かりませんが、大正4年5月1日の中外商業新報によりますと、『三春藩時代に於ては日暮、花月等の名馬を産し明治時代に在ては夫の御料乗馬たりし友鶴、旭日等のごとき・・・』とあります。三春駒の友鶴、旭日の二頭が明治天皇の、また繰糸号が明治天皇皇后の、さらに第二関本号が大正天皇の御料馬であったということに驚かされます。これは田村郡から献上された三春駒の在来馬であったといわれていますが、いずれにせよこれらの馬の調教師は、白沢村(本宮市)の佐藤庄助氏であったそうです。

 私は子どもの頃から、三春大神宮の境内に等身大の白馬の像のあることを知っていましたので、これは明治天皇に献納した三春駒の記念の像かと思っていました。しかし調べてみると、三春藩駒奉行徳田研山の指導で、石森村の仏師伊東光運が制作したものと分かり、時代も古く、天皇家に献納した馬とは無関係なようでした。

 第二次大戦後、軍馬の需要は無くなり、また農業の機械化によって馬のそのものの需要が激減しました。しかしその後も、田村郡では競走馬の生産が続けられ、小野町のトウコウエルザや桑折町の天皇賞・宝塚記念・菊花賞を制したビワハヤヒデが誕生しました。現在、福島原発よる事故の放射能に追われ、全村避難となっている双葉郡葛尾村(旧三春藩領)でも、多くの競走馬が飼われていましたが、近世以来の馬作りの伝統が、福島産の馬の活躍にもつながったと思われます。

 三春駒は、現在郷土玩具として、郡山市西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られています。その発祥の伝説は、田村麻呂が奥州征伐の時、京都清水寺の僧・延鎮が小さい駒の木像を100体作って贈ったところ、戦場で苦戦を強いられていたとき、どこからともなく100人の騎馬隊が現れて敵を倒し、去っていきました。その後、村人がそこで汗びっしょりの木彫の駒を1ヶ見つけて家に持ち帰り、それと同じく作ったのが三春駒で、それで遊ぶと子は健やかに成長し、子供のない人は子宝に恵まれると伝えられているものです。大正期に現在の形ができ、直線と面を活かした巧みな馬体と洗練された描彩は、日本三大駒の随一として定評があります。馬産地として日々の生活から人と馬との絆が、この木馬を生み出したのかも知れません。

 三春駒は、日本で最初の年賀切手に採用された民芸品です。工芸品だけで生きた馬の姿は見ることができなくなってしまいましたが、田村地域が馬の産地であったことは記憶に残しておきたいものです。




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最終更新日  2014.06.01 09:41:12
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