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カテゴリ:街 こおりやま
三春馬車鉄道と私鉄・平郡東西線
今年の7月は平郡西線(郡山〜三春)が開通して丁度100年になります。平郡の平は、『たいら』で、いまの『いわき駅』です。そして翌大正4(1915)年には小野新町まで延伸し、さらに平郡東線(平〜小川郷)が開通、大正6(1917)年になって小野新町〜小川郷が繋がって全通、平郡東西線は磐越東線と改称されました。 また一方で、明治31(1898)年に郡山~中山宿間が開業、明治39(1906)年には喜多方までが開業したところで国鉄に買収されて岩越線となりました。もともとこの線は岩越鉄道という私鉄によって着工されたものでしたが、全通前に国有化されたことになります。この岩越とは、岩代郡山と越後新津を結ぶことから付けられた名称でした。 岩越線は郡山を起点とし、新潟県新津を終点とする路線ですが、明治25(1892)年の鉄道敷設法で、日本海側の北越鉄道(私鉄・現信越本線)と福島県中央部の日本鉄道(私鉄・現東北本線)を結ぶ路線として、『新潟県下新津ヨリ福島県下若松ヲ経テ白河、本宮近傍ニ至ル鉄道』とされたのがその起源です。 大正6(1917)年に郡山から太平洋岸の平にまで線路が延びると、これが磐越東線とされ、これと合わせて岩越線を磐越西線と改称、 日本海と太平洋を結ぶ路線が完成したのです。そして今年の11月が、磐越西線全通100年となりますので、平郡西線100年とも重なります。。 新潟市秋葉区新津(旧新津市)にある新津駅は信越本線を所属線としており、ここは磐越西線の終点であると同時に、羽越本線を加えた3路線が乗り入れています。なお磐越西線の一部の列車は信越本線を通して新潟駅まで乗り入れており、羽越本線も新津駅が起点となっています。磐越高速道路が郡山〜新潟間なのに磐越西線が郡山〜新潟でないのが不思議に思えます。 この相次ぐ蒸気鉄道開通という慶事の中で、4半世紀にわたり郡山と三春をつないでいた三春馬車鉄道は、ひっそりと消えていきました。私がこの三春馬車鉄道の客車を実物大で復元し、郡山市歴史博物館に寄贈したのは32年前の昭和57(1982)年のことでした。 話が変わりますが、日本における馬車鉄道は明治15(1882)年開業の東京馬車鉄道を皮切りに、昭和24(1949)に解散した北海道銀鏡(しろみ)軌道を最後にして実に67年間、馬車鉄道が走り続けたのです。 馬車鉄道の利用法については、2つに分けられます。1つは地方での交通機関としてのそれ、もう1つは都市内交通機関としてのそれです。三春馬車鉄道は、1にあたります。 当時欧米では、馬車鉄道は、遠距離を走る蒸気鉄道を補完するものとして使われていました。日本においても、事情は同じでした。三春馬車鉄道は、ロンドン、リンツ、ザルツブルグ、ミラノなど、世界に名だたる大都市と同時期に、郡山と三春の2つの町をつないでいたのです。馬車鉄道は、いま振り返ると時代遅れにも感じられますが、舗装道路もなく道路事情の悪かったこのころ、揺れや振動が少なく、至極快適な乗り物だったのです。 ところでロンドンの馬車鉄道は、なんと2階建てでした。この伝統が、今のロンドンの2階建てバスに引き継がれているのかも知れません。ただしこの馬車鉄道、2階には椅子もなく、吹きさらしだったのです。つまり、2階には召使いが乗り、主人は下の客車の中に乗っていたのです。 すると召使いは、ご主人様の頭の上に、土足で腰を掛けていたことになります。 私が馬車鉄道に興味を持ったのは、明治20(1887)年に郡山まで開通した鉄道の駅と三春との間に、明治24(1891)年から大正3(1914)年まで走っていたことを知ったことにありました。そしてそのころ馬車鉄道は、福島、北海道、石川、静岡に各5社、福岡に4社、群馬、埼玉、山梨、佐賀に各3社など、その数は40社にも及んで いました。では何故この地にこのような最新鋭の馬車鉄道が造られたのでしょうか。それは田村地域で盛んであった養蚕業が関係していたと考えられます。横浜という貿易港と鉄道で結ばれた郡山へ、商人や絹製品を運ぶのがその目的であったようです。 私はこれらのことを知って資料を集め、これに乗ったことのある2人のお婆さんを探し当てて話を聞き、実物大で三春馬車鉄道の客車の復元をはじめながら、三春馬車鉄道についての本をまとめたのです。それは、昭和64(1989)年に出版した『馬車鉄道〜インダス河より郡山・三春へ』です。やがて完成したそれを郡山歴史資料館に寄付をしたのですが、そのときすでにお2人は、この世にはおられませんでした。ところがそのうちの一人であった村田イネさんのご家族の話によると、亡くなるときにこう言われたそうです。 「捨五郎さんと馬車鉄道で郡山サ行って……」 私の古臭い名前と実物大の模型に乗って頂いたときの記憶が彼女の意識の混濁の中で結びついてしまったのでしょう。そう考えると、あのときが客車復元の最後のチャンスであったと思っています。 それを知る 媼(おうな)らは皆 去り逝きぬ 馬車鉄道の 稿を了えしに この『馬車鉄道〜インダス河より郡山・三春へ』をまとめたとき、郡山女子大学短期大学部教授高橋哲夫先生より序文を頂きました。臆面もなく、それをここに載せさせていただきます。 『著者の橋本捨五郎氏は桐屋株式会社の社長である。現在は郡山市で家庭用品の総合卸、それに桐屋商事株式会社として県内各地に多数のガソリンスタンドを経営している経済人である。「桐屋」はもともと城下町三春の老舗で三春有数の富商であった。 三春町に育った私は昔の桐屋を覚えている。中町通りの間口の広い店舗で、前掛けをした二、三人の番頭がいつも正面の畳敷きの火鉢の側に正座していた。広い間口の中央に、奥の倉庫までレールが敷かれており、トロッコに荷を積んで奥に運んでいるのを何度か見たことがある。これが大正末から昭和初期の桐屋の風景である。 「古河に水絶えず」といわれるが、戦後桐屋は経済都市郡山に進出し、大きな卸問屋に発展した。代表取締役の橋本捨五郎氏は経済人であると同時に、隠れた文化人でもある。何時、何処で研究されたのか定かではないが、その歴史的見識には並々ならぬものがある。視野も広く、コトの追求には積極果敢、内外の資料を蒐集して所論をまとめる。それはすでに“社長の趣味”の域をこえて、学者はだしの論文をものにするのである。 本書は「三春馬車鉄道」の研究からはじまり、その追求は古代の欧米。シルクロード、エジプトまでの「馬車」と「馬車鉄道」の歴史を追究してゆく。つまり、地球規模で「馬車」に関する夢を追いかけているのだ。 𣘺本氏のライフワーク、馬車と馬車鉄道の研究はすでにかなりの量に及んだ。競争の原理に飛びまわっている経済人にはまことに珍しい存在である。氏に出版を薦めた責任もあって一文を寄せる次第である』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.07.14 05:09:48
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