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カテゴリ:街 こおりやま
三つの古関
江戸時代、奥羽三古関と言われたものに、勿来(菊多)関、白河関、鼠ヶ関(ねずがせき・山形県鶴岡市)がありました。鼠ヶ関が作られた年代は分かりませんが、大化3(647)年には渟足柵(ぬたりのき・新潟市中央区沼垂・ぬったれ?)が、翌、大化4年には磐舟柵(現在の新潟県村上市岩船の辺りと推測)が造られています。これらは、北東辺境における城柵として、日本書紀に見ることが出来ます。 この渟足柵は、養老年間(717〜723)に沼垂城として拡充され、史上最初の城柵とされています。しかし、渟足柵・沼垂城共に遺構は発見されていず、信濃川と阿賀野川の河口が沼地であったため、度重なる洪水により流されたものと考えられています。 白河関は、白雉元(650)年に作られたと言われ、その後の神亀5(728)年には白河軍団がつくられています。さらに神護景雲3(769)年には陸奥国大国造道嶋宿祢嶋足(みちしまのすくねしまたり)の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、白河郡では丈部某と大伴部某がそれぞれ安倍陸奥臣および安倍会津臣を授かっています。また宝亀11(780)年12月27日 (旧暦)には陸奥鎮守府副将軍の百済王俊哲(しゅんてつ)が賊に囲まれ危機に瀕したのですが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとされています。 勿来関も白河関と同じ時期に作られたといわれていますが、いまのところ、和歌など文学作品以外の古代の史料に勿来関が見つかっていないことから、『奥羽三古関』は、勿来・白河・鼠ヶ関の三関を指していたのかどうかは不明とされています。 勿来関が、奈良時代に蝦夷の南下を防ぐ目的で設置されたとする説については、『な来そ(勿来)』が『来るな』という意味であると考えられることからの付会、あるいは、他の関が軍事的に活用された事例の援用あるいは敷衍だと察せられています。しかしそれを、直截的に示す根拠は見つかっていません。 いずれにしても、3ヶ所しかないとされる3つ古関のうち、2つが福島県というのは興味深いことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.10.06 10:08:33
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