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カテゴリ:戒石銘
山 根 地 方 1
一揆は針道村からはじまった。針道村は山根地方と呼ばれる阿武隈川東岸の阿武隈山地に属し、三年に一度は凶作に遭う地域であったので餓死から身を守ることは大変なことであった。欠落・逃散や質物奉公人なども多数出ていた。百姓たちは近くの神社や入会地に集まり、話し合いを繰り返していた。各村々は、ばらばらに動きはじめたが、各村の間で相談をした訳ではなかった。しかし相談はなくとも、凶作と藩への恐怖と怒りの共有があった。その恐怖と怒りが不安な空気を生み、その不安な気持ちが不穏な騒動となって爆発しようとしていた。藩の側としても、『寛延二年の暮十二月初めより、針道組の百姓ども所々の山林に寄騎して、飢餓難儀の談合、訴えの企て取々なり』という情報を手にしていた。 「お前、お城に作られたという戒石銘の話を聞いたか?」 「うん。聞いた。何でもそこには『民草はいくらでも騙せるし、虐げたって別にどうってことはないから、汗でも脂でもごっそり搾って武士の給料にすればいい』と書いてあると言うではないか」 「おお、知っていたか。誰に聞いた」 「村を通って行った修験者に聞いた。学のある修験者様が言うことだから、間違いはあるまい」 そのことは過酷な年貢とはまた別の問題として、百姓たちの気持ちを逆なでしていた。しかしそれはそれとして、善右衛門は人をまとめるためには凶作だけの理由だけでは駄目であり、何か政治的理由を付け加える必要を感じていたから、この話は価値があると考えた。そこへ他領の一揆に関する情報が入って動きが一段と活発化し、『一同出訴』の意志を固めた。 奥州安達郡私共村々(南戸沢・東新殿・西新殿・田沢・茂原・上太田)の者共、去寛延 二年不作に月お願いに出ずべきかと存じ罷有候処、御他領の百姓共出訴仕り候えば御願 相叶候筋もこれある由風聞仕り候につき一同延穀願い仕りたき旨相談に及び・・・。 この文中『御他領の百姓共出訴仕り候えば御願相叶候』とあるのは、元文元(1736)年の三春一揆のことと思われる。三春藩の領内総百姓が十二月十二日に城下に集合して起こした強訴で、翌十三日、当年の年貢を半免とすること、百姓たちに味方したとして解職された家老の復職、悪政の噂高かった郡代、郡奉行の引き渡しなどの回答をかちとったのである。しかも同じ日、越後高田藩の分領である浅川で、一揆が発生した。これらが山根地方の百姓たちの心を揺さぶった。 「やれば出来る」 十二月十四日(この日付は「二本松藩史」)、西新殿村の農民らが西泉寺に集合し、次の三点を要求としてまとめ上げた。 1 永年六月まで御用米金に延納 2 年貢半免 3 小物成御免 組織者は長(おさ)百姓伝右衛門であったが、願書を名主宅へ持参し藩庁への取り次ぎを依頼したのは百姓宗右衛門であった。同じころ東新殿村、田沢村、杉沢村などでも広沢寺に集合して話し合いが行われ、延穀願書に署名している。寒さで吐く息が白かった。 十二月十六日には田沢、茂原、東新殿の者たちが村を出て安野沢寺山に集まり、西新殿村もこれに加わった。各村ごとの自然発生的であった騒動は、それぞれが雪ダルマ式に次第に人数を増していった。しかしこの間、これらの寺々の住職たちが、一揆勢たちとの相談に応じたとの記録はない。通常住職は、領民と藩庁との間の仲介役を兼ねていたにもかかわらず、橋渡しの記録がないということは、それだけ一揆勢の動きが先鋭化していたということであろうか。 十二月十七日の昼前には、田沢村、茂原村が、百目木村に押し寄せた。百目木村の総百姓も同調、山木屋村、針道村、南戸沢村、北戸沢村、上太田村、西新殿村、内木幡村、外木幡村、杉沢村も加わり三千七百余人が小浜村に向かった。正木善右衛門を中心とする上太田村では三十五人が五福田に集結して早坂から上寺・梅沢を経て小浜に向かったと伝えられる。一揆には経済闘争の他に、『反戒石銘』の政治的要求が含まれ、さらには岩井田昨非の引き渡しを求めていた。野山には、雪が積もっていた。 一揆勢が小浜に着く頃、小浜組の成田村、鈴石村、平村、上長折村、下長折村、外木幡村、平石村、西勝田村、下大田村、さらに糠沢組の長屋村、白岩村、稲沢村、松沢村、初森村、高木村も参加、三万石を耕作する総百姓が小浜の山野に充満、大一揆の様相を呈してきた。百姓たちも二本松城下に押し寄せる道すがら、沿道の村落に参加を求めて動いていた。善右衛門は、それらの人数の多さに恐怖さえ感じていた。その統一した行動が取れなくなるのではないかという恐れから、指導者としての善右衛門は次のような一揆作法を提示し、それは直ちに決定された。 一 酒屋へ入り酒を飲んだときは、代金を支払うこと。ただし銭が無いときは帳面に 書いて貰い、あとで支払うべし。 一 持参の食事が無くなったときは、町方で穀屋に頼み食すること。 一 道筋の田畑に障らぬこと。並びに町方にて商売物にムザと手を付けぬこと。 一 町方にて戸障子に触れぬこと。町人に悪口雑言をしないこと。 右の通屹度相慎むべし。もし相用いざることあらば、仲間にて打ち殺すべく候。 以上 一揆勢は手に手に山刀や『まさかり』を持ち、鎌を差した麻の指着物を鎧とし、簑笠を甲冑にかえて上帯には荒縄をした。食事には焼飯、香煎(麦こがし)、焼食(米雑穀)、栗、稗、粟、などを入れた俵を背負っての出立であった。一揆勢は大平村島ノ内に移動、阿武隈川を挟んで藩主側と対峙した。一方この動きは西安達や安積郡にも広がりを見せ、全藩一揆の様相となってきた。藩側では一揆勢を鎮めるため、一揆勢の要求をすべて受け入れる形で教書を出し「年貢米の半免と納期の半年延期」を約束した。一揆勢の全面的勝利であった・・・はずであった。しかし事は、そう簡単には済まなかったのである。 この有様は各村の名主、組頭、目付らによって代官、郡奉行に注進され、城会所でその対策の評定がはじまった。とりあえず郡代原勘兵衛の命令で郡奉行綿見幸右衛門、桑原関左衛門、針道組代官三沢定左衛門、小浜組代官白石源太右衛門が鎮定のため小浜に派遣された。四人は小浜村名主水梨郡右衛門宅を仮役所とし、捕手同心を二手に分けて小浜村を探索させたところ、たまたま食事のためうろついていた田沢村、茂原村の百姓四・五人を捕まえた。捕らわれた農民たちは頭取名や一揆のねらいなどを白状せよと拷問にかけられた。しかしそれを知った一揆勢は、「ただ一人でも召捕らわれる者あらば、我々共の言い訳が立たず」としてただちに名主宅を襲い、門や台所を打ち壊して捕縛された者たちをとり戻した。このとき一揆の目的を問われた一揆勢は口々に「願いの筋は海山なり、然れども我々は御城下へ相詰めて御太守公へ直々に申し上げる所存なり。近年打ち続き凶作の上、年貢上納急かせ、艱難辛苦の根元はこれみな郷方役人の仕業なり・・・願わくば岩井田とやら舎人とやら、そのほか郷役人を申し請け、百姓の仕業をさせて思い知らせん」と返答したという。出張役人らは為す術もなく城下へ逃げ帰った。勢いづいた一揆勢は小浜から城下を目指して移動し、再び大平村島之内広野(二本松市大平)に集結して近辺の『居久根持山立木共伐倒し、なぎ倒し、数百ヶ所にかがり火をた』いて一夜を明かした。一揆は先鋭化し、第二段階を迎えたことになる。 翌十八日までに島之内の広野に集まった一揆勢は都合一万八千七百余人に達し、さらに後陣として小瀬川台に四千九百余人が集結したという。この日藩主丹羽高庸は鷹狩りにことよせて宮戸川原に出馬しており、御使番の松井槙太、平松志賀を上使として派遣し、願いの筋を問わせたが一揆勢は彼らを使者として信用せず、これを追い返した。一方、二本松城下防備のため、家老丹羽図書、成田監物をはじめ物頭二人、大目付一人が士卒、郷同心ら総勢一千余人を動員して供中河原に陣を張った。さらにこの日は渋川組の村々も動きだし、沼袋、上川崎、下川崎、吉倉、米沢、二本柳、小沢など(両塩沢もか?)『十ヶ村の百姓共二千余人蜂起』し小沢、川崎の山の手に集まって数百ヶ所にかがり火をたき、気勢を上げた。藩はこれに対する備えとして物頭上田蔵人、小川平助に手勢二百余騎をつけて川崎口を固めさせ、さらには渋川組代官上崎金兵衛、杉田組代官鱸(すずき)治部弥に、それぞれ組内の村々を巡回、警戒させた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.12.11 10:27:11
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