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カテゴリ:街 こおりやま
征夷大将軍史
征夷大将軍と言われて最初に頭に浮かぶ人物は、坂上田村麻呂です。ところで征夷とは東夷を征討するという意味で、征夷将軍は夷征討に際して任命された将軍の一つで、太平洋側から進む軍を率いました。日本海側を進む将軍は鎮狄(ちんてき)将軍、九州へ向かう将軍は鎮西将軍と言います。この呼び方は「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたとされています。この蝦夷征討のための臨時の職としては征夷使があり,征夷使を征東使と呼んだ時期もありました。大将軍,副将軍は大使,副使とも呼ばれましたから,征夷大使,征東大使は実質的には征夷大将軍と同じでした ところで最初の征夷大将軍は、延暦13(794)年の大伴弟麻呂であって、田村麻呂は副将軍でした。田村麻呂が征夷大将軍となったのは、延暦16年のことでした。つまり、2代目であったということになります。征夷大将軍は,田村麻呂の専売特許ではなかったのです。そしてこの征夷大将軍には前史があったのです。 知られる限りでの鎮守将軍の始まりは、大野東人(おおののあずまひと)がもっとも古く、東夷に対する将軍としては、和銅2(709)年に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂(こせのまろ)が最初であり、「征夷将軍(通常、征夷大将軍と同一とされる)」の初見は、養老4(720)年に任命された多治比縣守(たちひのあがたもり)です。 延暦2(783)年、大伴弟麻呂(おおとものおとうとまろ)は征東副将軍に、また3年には征東将軍になり、10年になって征東大使に任じられました。征夷大将軍正式の呼称の初見は、やはり延暦13(794)年正月1日の『日本紀略』です。『征東使を改めて征夷使となす』とあることから、征夷大将軍という名が固定化していったものと思われます。 ここで言われる征東使とは、東の土地を制するという意味でつけられたそうです。しかし土地を制するには、そこに住む人を押さえなければなりません。征夷使とは、そういう意味で付け替えられたのかも知れません。いずれにしても、征蝦夷将軍から最初の征夷大将軍になるまで、約85年の間がありましたから、蝦夷征討にはいかに手こずっていたかが分かります。 次は、役職名の一覧表です。 和銅 2(709)年 征蝦夷将軍。 和銅 2(709)年 陸奥鎮東将軍。巨勢麻呂。 養老 4(720)年 持節征夷将軍。多治比縣守 養老 5(721)年 征夷将軍。 神亀 元(724)年 征夷持節大使。大野東人 宝亀11(770)年 征東大使。 持節征東大使。 延暦 2(783)年 征東副将軍。大伴弟麻呂 延暦 3(784)年 持節征東将軍。大伴弟麻呂 延暦 7(788)年 征東大将軍。 7月16日 征東大使。紀古佐見。 延暦10(791)年 征夷大使。大伴弟麻呂 延暦12(793)年 征東使を改めて征夷使となす。 2月、征夷副使。近衛少将坂上田村麻呂。 延暦13(794)年 征夷大将軍。大伴弟麻呂。 延暦16(797)年 征夷大将軍。坂上田村麻呂。 征夷大将軍は、公家の推挙で天皇に任命される人物です。ということは、征夷大将軍は公家よりも身分が低いということになります。この征夷大将軍の人事ですが、源・平・藤・橘出身が征夷大将軍に就任できる家柄であるとされていました。それに征夷大将軍は、陸奥における蝦夷征討のため朝廷から任命された総指揮官です。 延暦16(797)、弟麻呂は征夷大将軍として節刀を受け、副将軍であった坂上田村麻呂らが蝦夷に大勝しました。田村麻呂が征夷大将軍となるのは延暦16(797)年になってからのことでした。また征夷大将軍は征夷行為に関して朝廷から任命された現地の軍の最高司令官であり天皇の代理人という権能を有していたことから、武人すべての世俗的な最高司令官としての力が備わるようになっていったのです。 その後の征夷大将軍は途切れましたが、中世で初めて征夷大将軍となったのは、木曽義仲です。この義仲に代わって建久3(1192)年、源頼朝が征夷大将軍の位を得て鎌倉幕府を開くのですが、天皇の節刀を親授されることなく軍政大権を委譲されることで、源氏の棟梁、ひいては武家の棟梁としての権力を拡大し、これまで天皇大権の内にとどまっていた軍令権が天皇大権の外に自立させたのです。 鎌倉幕府から江戸時代末期まで約675年間、征夷大将軍を長とする武家政権が続きました。このことから、武士の棟梁としての征夷大将軍は事実上の日本の最高権力者になったのです。 明治維新後、明治政府に変わってから、征夷大将軍の官職も廃止されました。ちなみに日本最後の征夷大将軍であったのは、徳川慶喜でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.01.01 12:04:07
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