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カテゴリ:街 こおりやま
阿 尺 と 安 積
国造(くにのみやつこ)は、律令制が導入される以前の地方官で、軍事権、裁判権なども持ち、実質的にその地方の支配者でした。訓のみやつことは御奴(みやつこ)の意味とも解されます。国造の下に県(あがた)があり、かなり整備された国県制があったとする見解もありますが、国造制の実態や中小豪族との関係で不明な点が多く、律令制以前の地方支配の実態は明確になっていません。しかし大化の改新(大化二・646年)以降、国造は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となり、従来の職務は郡司に置き換えられていきました。 阿尺国造が治めた阿尺国は、律令制下の評(郡)に転じたものに始まるとされています。 続日本紀によりますと、和銅6(713)年5月2日条で『畿内、七道の諸国は、郡、郷の名に好字(漢字二字の嘉き字)を著(つ)けよ』と命じる地名嘉字使用令が出ましたので、その時点で阿尺は安積という文字に変えられたものと思われます。 さて現在、JR東北本線宇都宮駅の二つ北、烏山線と分岐する地点に宝積寺駅があります。これは栃木県高根沢町宝積寺にある駅で、『ほうしゃくじ』と読みます。積が『しゃく』なのです。 そこから調べてみましたら、宝積寺(ほうしゃくじ)という古い読みの寺が、京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の寺にありました。この寺は山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山の南側山腹にあったのです。寺伝では神亀元(724)年、聖武天皇の勅願により僧・行基(ぎょうき)が建立したと伝えられています。 さてこの阿尺国の阿尺、『あしゃく』だったのでしょうかそれとも『あしゃか』だったのでしょうか? もし『あしゃか』なら安積につながるのですが、『あしゃく』ではちょっとつながりにくいと考えていました。しかし地名嘉字使用令が出された713年よりたかだか11年後の724年に建立されたこの京都府の宝積寺の読みから、『安積』と文字を変えた時点では宝積寺(ほうしゃくじ)と同じ読みの『あしゃく』であったのではないかと想像していました。 この宝積寺、実は福島県にも4ヶ寺ありました。福島市舟場の宝積寺には、伊達晴宗(政宗の祖父)の墓があり、会津若松市小田山の山麓にある宝積寺の地蔵尊の錫杖の頭には、十字架がついているそうです。その他にも、同じ文字と読み方の寺が、喜多方市と伊達郡桑折町にもあるのを見付けたのです。 ところが後に、『さか(積)』は通常『しゃく(尺)』の転訛であるということを知りました。そのこともあって、いつの間にか安積が「あさか」と読まれるようになったのだと思います。ということは、『積』という文字は『しゃく』と読むのが当時の常識? であったのかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.02.01 18:39:28
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