1616989 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

桐屋号

桐屋号

カテゴリ

著書一覧

(1)

ショート、ショート

(236)

街 こおりやま

(91)

阿武隈川~蝦夷と大和の境界線

(15)

埋蔵金の伝説

(7)

三春藩と東日流外三郡誌

(12)

安積親王と葛城王

(18)

安積山のうた〜思いつくまま

(8)

和歌と紀行文に見る郡山

(42)

田村麻呂~その伝説と実像

(19)

雪女~郡山市湖南町の伝説

(9)

郡山最初の領主・伊東祐長

(21)

田村太平記~南北朝の戦い

(32)

源頼朝に郡山を貰った男

(24)

愛姫桜~ひそやかな恋の物語り

(12)

北からの蒙古襲来

(12)

さまよえる神々~宇津峰山に祀られた天皇

(15)

三春挽歌~伊達政宗と田村氏

(19)

寂滅~隠れ切支丹大名

(10)

江戸屋敷物語

(9)

大義の名分~三春は赤穂とどう関わったか

(12)

三春化け猫騒動~お家騒動伝説

(14)

三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本

(0)

戒石銘

(10)

会津藩、ロシアに対峙す~苦難の唐太出兵

(42)

郡山の種痘事はじめ

(25)

いわれなき三春狐

(10)

三春戊辰戦争始末記

(45)

遠い海鳴り~幕末三春藩の経済破綻

(15)

小ぬかの雨~明治4年、三春藩最後の敵討ち

(16)

馬車鉄道〜インダス川より郡山・三春へ

(31)

三春馬車鉄道(抄) 2006/3 歴史読本

(1)

マウナケアの雪~第一章 銅鑼の音

(27)

マウナケアの雪~第二章 心の旅路

(24)

マウナケアの雪~第三章 混迷するハワイ

(29)

マウナケアの雪~第四章 束の間の平和

(26)

我ら同胞のために~日系二世アメリカ兵

(50)

二つの祖国の狭間で

(21)

九月十一日~ニューヨーク同時多発テロ

(13)

石油輸送救援列車・東へ

(13)

講演その他

(2)

新聞雑誌記事

(27)

いろいろのこと

(1)

海外の福島県人会

(34)

鉄道のものがたり

(10)

コメント新着

桐屋号@ Re:郡山の製糸(01/04) ビジターさん 1* 私はPCについてよく知…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
桐屋号@ Re:10 新たな資料(02/26) 詳細をありがとうございました。 つい先日…
桐屋号@ Re[1]:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) 通りすがりさんへ ありがとうございます…
湊耕一郎@ Re:10 新たな資料(02/26) 御無沙汰しております。お変わりありませ…
通りすがり@ Re:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) 今泉正顕著「安積采女とその時代」(教育書…
aki@ Re:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
GX革命@ Re:大同2年(04/26) ルパン三世のマモーの正体。それはプロテ…

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2015.06.01
XML
カテゴリ:街 こおりやま
   天皇になれなかった安積親王

 天皇になるべくしてなれなかった皇子に、安積親王がおられました。この地に住む以上、何とも気になるお名前です。

 
藤原不比等は、38代天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子です。ところで39代の弘文天皇が壬申の乱に敗れて自害し、在位わずかに6ヶ月にして40代天武天皇(在位13年)が皇位につきました。この天武天皇に、不比等の異母妹の五百重姫が后となっています。天武天皇亡き後、五百重姫が41代持統天皇(女帝)となったのですが、在位7年で42代文武天皇(在位10年)に譲位しました。不比等はその文武天皇の后に娘の宮子を嫁がせたのですが、そこで生まれたのが首皇子(おびとのみこ)、後の45代聖武天皇になります。しかも不比等は娘の光明子(後の光明皇后)を聖武天皇の后とさせたのです。不比等は妹と2人の娘を、三代にわたる天皇の后とすることで、天皇の姻戚としての地位を確立したのです。

 神亀4(727)年、第45代の聖武天皇と安宿媛(あすかひめ)(藤原不比等の娘の光明子で、のち光明皇后になる)との間に基皇子(もといのみこ)が誕生しました。待望の男子を得た天皇の喜びはひととおりではなく、生後わずか32日の乳飲み子を、皇太子に仕立てあげてしまったのです。天皇はもちろん皇太子にも成人であることが求められた当時としては、きわめて異例な措置でした。しかし翌年、基王は重い病気となったのです。そしてその年、聖武天皇と県犬養広刀自との間に、聖武天皇の第二皇子として安積親王が生まれたのですが、なんとその1ヶ月後に、皇太子の基皇子が夭折してしまわれたのです。なお刀自とは、地域の女性の統率者を指したのですが、次いで、夫人の尊称として使われたものです

 この当時、天皇家を巡って、藤原氏が台頭していました。そのような天平8(736)年5月、安積親王は8歳のとき、すでに斎王になっていた姉・井上内親王のために写経を行っています。なお斎王とは。伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王のことを言います。

 基皇子が亡くなったため、聖武天皇唯一の皇子であり、皇太子への最も有力な候補である安積親王がいたにもかかわらず、天平10(738)年、安宿媛(あすかひめ)を母に持つ阿倍内親王(のちの四十六代・孝謙天皇)が初の女性の皇太子になられたのです。しかし阿倍内親王の弟の基王のときは生後二ヶ月で立太子させながら、安積親王は10歳になっていたにも関わらず幼いとされ、20歳になった阿倍内親王が皇太子とされたのです。伊勢にあった21歳の井上内親王は、実弟の安積親王が皇太子であるべきであるとして強力に反対したのです。これはある意味、皇室と藤原氏との対立が、表面化したものとも思えます。内親王の立太子は前例がなかったのですが、これは、光明皇后を皇室に送り込んだ不比等の強力な巻き返しの一手であり、皇室としても当面の安定策として採用せざるを得なかったものと思われます。

 天平15(743)年、15歳になった安積親王は、藤原八束の邸にて宴を開いているのですが、このことから見えることは、藤原氏も一枚岩ではなかったということかも知れません。この宴には当時内舎人であった大伴家持も出席しており、家持が詠んだ歌が『万葉集06/1040』に残されています。

     久堅の 雨は降りしけ 思ふ子が 屋戸に今夜は 明かして去かむ
(ひさかたの 雨よ降れ降れどんどん降ればよい。そしたら、私の大切に思っているあの子(安積親王)が帰れなくなってここに今夜はお泊りになるだろうから)

 どうでしょう。「やがては」、と安積親王に期待する家持の気持ちが詠われているようには思えませんでしょうか。しかも藤原氏に気兼ねをしたのか、安積親王を『あの人』と表現しているのです。この宴は安積親王を慰める、または元気づけるためのものであったと思われますが、もしそうであるとすれば、記録にはありませんがこれ以前にも多くの宴が開かれていたと思われます。また翌16年1月11日には安積親王の邸があったと見られる活道の岡でも、家持、市原王らが集まって宴を開いています。

  一つ松 幾代か経(へ)ぬる 吹く風の 声の清(きよ)きは 年深みかも
(一本松よ あなたはどのくらいの時を生きているのか 吹いて来る風の声が清らかなのは 長い時がたったからなのか  (万葉集 06/1042)
                           市原王
 なお市原王は、天智天皇の皇子で弘文天皇の弟に当たります。この歌は、皇統から疎外された市原王と、政権から疎外された名門の大豪族の末裔の貴公子大伴家持との、安積親王に対する祝福の歌であったのであろうと想像されています。彼らにとっての最大の願望は安積親王の即位にあったのではないでしょうか。この歌は安積親王への正月の祝賀歌であると同時に、『一つ松』という言葉に安積親王の即位を待つ期待が、また『松』には安積親王の無事長命を合わせ込めたものであると言われています。

 天平16年、聖武天皇の難波行幸に同行した安積親王は、脚の痛みにより途中から引き返し、そのわずか2日後に、17歳で薨去されました。しかし脚気により、しかも2日後に急逝したことはあまりにも異常なことであり、この事実から、安積親王は藤原仲麻呂によって暗殺されたのではないかとも言われています。

 さてこの安積ですが、実にこれは、難読地名の一つなのです。当時、いまの兵庫県宍栗市にある安積山(あづみやま)製鉄遺跡のような呼ばれ方が普通だったのです。それであれば安積(あづみ)親王の方が正しかったとも推測できます。しかし安積親王誕生4年前の神亀元(724)年、海道(東北の太平洋沿岸)で蝦夷の叛乱があり、防衛のため陸奥按察使兼鎮守将軍である大野東人により、多賀城が設置されているのです。安積の地が対蝦夷戦の兵站基地にされたらしいこともあり、都人(みやこびと)の間では安積の地名が知られていたとも考えられます。

 この蝦夷との接点の多賀城、つまり軍事的に重要な地域への兵站基地の安積という地名には「猛き者、強き者」という意味で親王の名としたのかも知れません。『あづみ』をあえて『あさか』と読み変えた理由が、ここにもあるような気がします。それにしても、この時点で、安積(あさか)という地名が聖武天皇の皇子の名とされていたことに驚かされると同時に、もし安積親王が天皇になっておられたら、安積という地名の知名度が高まっていたかも知れません。




ブログランキングです。
バナー←ここにクリックをお願いします。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015.06.01 08:13:08
コメント(0) | コメントを書く
[街 こおりやま] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.