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カテゴリ:街 こおりやま
安積派の人々
安積親王は聖武天皇の嬪(ひん・そばめ)の子であったのですが、聖武天皇に男児が一人しかおりませんでしたので、天皇の座に一番近い位置にありました。ところで当時権勢を振るっていた藤原氏に対して反対する勢力、つまり安積親王を次の天皇に擁立しようとする人々がいました。その代表的な人物が、郡山と関わりのあったとされる葛城王でした。 その葛城王が橘諸兄と名を改めたのは、52歳の頃でした。人生の経験を豊かに積んだ老齢と言ってもおかしくない年齢であったにも関わらず王の位を捨て、わざわざ橘の姓を授かるという一見不可思議な行為は、安積親王を天皇にという考え方から来たのかも知れません。しかし安積親王を擁立しようとすると、反藤原の運動とも重なるのですが、この運動は葛城王を中心にして、皇族方の協力も多かったとされます。 そのような人々に、安積親王の実姉である井上内親王や不破内親王がいたのは当然としても、その他にも白壁王(井上内親王の夫)や塩焼王(不破内親王の夫)、市原王(天智天皇の曾孫。天智天皇の次子・川島皇子の曾孫との説もあります)や長屋王(天武天皇の孫)などがあげられます。 これらの皇族以外でも大伴旅人と家持親子がありますが、この二人は歌人として有名でした。しかし大伴氏は物部氏と共に朝廷の軍事を管掌しており、むしろ武人としての家系にあったのです。 この他にも、安積親王と親交のあった藤原真楯は藤原房前(ふささき)の第三子で母は美努王の娘・牟漏女王(むろのおおきみ)で、橘諸兄の甥にあたります。真楯は藤原氏の出身でありながら安積派についたのは、葛城王との関係があったからかも知れません。 またその他にも、遣唐使となった僧・玄ぼうや吉備真備(きびのまきび)がいました。彼らは菅原道真と並んで、史上最高の天才とされた人たちです。しかし藤原の血を引く安倍内親王(女性)を孝謙天皇にしながら、藤原の血を引かない安積親王は藤原氏に暗殺されたらしく、天皇になれなかったのです。もし天皇になっていたら今ごろ安積は…。 なお安積派とは、安積親王擁護派に対する私の造語です。 ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.09.01 12:12:58
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