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2015.10.01
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カテゴリ:街 こおりやま
    私 見・安 積 山 の 歌

阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓(あさかやまかげさへみゆるやまのゐのあさきこころをわがおもはなくに)
 これは2008年、紫香楽宮(しがらきのみや)の跡とされる宮町遺跡から出土した歌木簡によるものです。
 万葉集の原文はすべて漢字一字による表記です。ですから万葉集に載せる以前に書かれたこの木簡の『阿佐可夜麻』の文字列からは、『安積山』か『浅香山』かの判別はできません。さらに万葉集には、『安積山』ではなく『安積香山』と記載されているのです。この安積香山の歌が収められている万葉集の巻十六までは、天平十七年(745)以降数年で編纂したとされ、『安積山の歌』が詠まれたのは722〜736年の頃とされています。

 安積山の歌は、葛城王に思いを寄せる『陸奥国前采女某』、つまり名も知られていない釆女の作とされ、「安積山の影さえ写って見えるほどの浅い山の清水、そのように浅い心であなたを思っているわけではありませんのに、深くお慕い申し上げていますのに・・・。それにもかかわらずあなたは・・・」と解釈されています。しかし、あえて私見を述べてみたいと思います。

 まず安積山とは、藤原氏に暗殺されたらしい安積親王を比喩的に表現したものではないかという前提です。つまり万葉集の編者であった葛城王や大伴家持が、安積親王を藤原氏からの陰謀の目を逸らすために、山という暗号を使って安積親王の歌を詠み、作者を『陸奥国前采女某』、すなわち実質的な『詠み人知らず』として載せたとも考えられるからです。それでも万葉集に載せる時点で安積香山としたのは、藤原氏に対して、安積香山が安積親王ではないという言い逃れの余地を残そうとしたのではないかと思うのです。

 郡山にある『釆女伝説』では『山の清水』に安積山が映ったとなっていますが、片平や日和田にあるような小さな池に『安積山』という大きな山容が映るものでしょうか。つまり覗き込めば顔くらいなら映るが、ということではないでしょうか。それを示唆するかのように、大和物語の方では、娘が『山ノ井』に自分の顔を映しています。このことは、安積香山が安積親王であったことを暗示していると思えるのです。

 その上この歌が、どういう経緯で万葉集に載せられたかという推測です。万葉集の編纂にかかわった人に、葛城王や大伴家持がいます。この二人が安積派として動いていたので、この歌を万葉集に載せるには、そう面倒はなかったものと思われます。そこで葛城王が安積の地を訪れたことにしてこの歌を作ったとは考えられないでしょうか。この歌の左注には、次のようにあります。

  右の歌伝へて云はく、『葛城王、陸奥国に遣はされたる時
  に、国司の祇承の、緩怠なること異に甚だし。ここに王の
  意悦びずして、怒りの色面に顕はれぬ。飲饌を設けたれ
  ど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女あり、風流びたる娘
  子なり、左手に觴を捧げ、右手に水を持ち王の膝を撃ちて、
  この歌を詠む。すなわち王の意解け悦びて、楽飲すること
  終日なり』といふ。

 郡山で『釆女伝説』となったのは、この左注が一人歩きをしたからではないでしょうか。しかも葛城王が、安積地方に来られたという文献がないこともあって、果たして実際に安積に来られたのかという論争もあります。ところが1説に、神亀元(724)年、按察使大野東人が築城したとされる多賀城の落成祝に天皇の名代として出席した葛城王が、その帰り道に安積に立ち寄ったという説があるのです。しかしこれも変です。もしそうであるとすれば、葛城王が一人で来る筈はありません、必ずお付きの者がいた筈ですし、そうであれば尚更のこと、天皇の名代という大きな公(おおやけ)のことですから文献に残らない筈がありません。

 東北大学名誉教授・高橋富雄氏は、その著書『地方からの東北学』で、「当時の都の人が思いを抱く安積の山とは1つしかなく、それは安達太良山以外にはないのではないか。安達太良山は万葉集に3首載っているようにみちのくを象徴する山の1つであり、まして天平時代の当時は、安達もまた安積郡の中に入っているころだから郡衙の高台から見る安達太良山は、まさに安積地方を代表する高峰だったろう」と書いています。しかし私は、あえて疑問を呈したいと思います。それなら何故、『安達太良山 影さえ見ゆる山ノ井の』としないで安積山を詠った唯一1首、『安積山 影さえ見ゆる山ノ井の』としたのかと疑問に思っています。

 もしこれらの推測を許して頂けるなら、この歌の意は次のようになると思われます『安積親王のお顔さえ映って見えるほどの浅い山の清水。私(葛城王)は、安積親王を深くお慕い申し上げています』

 ところで近世以後、郡山では安積山と比定される場所として、日和田町と片平町があります。日和田の丘は、大正四年に安積山公園として整備されて歌碑が建てられ、市営日和田野球場が作られています。当時を知る人の話では、「山というより小さな丘であった」そうです。この場所は日和田町字安積山にあり、隣接して字山ノ井(明治二十二年の合併以前は山ノ井村)があったことから、ここが安積山とする説があります。そしてここには、直径50センチほどの清水の溜り(山ノ井か?)があります。

 もう一つは、片平町王宮にある王宮伊豆神社と采女神社(祭神葛城王)の近くにある額取山(ひたいとりやま)が安積山とされ、またこの山の近くにある『山ノ井公園』には『山ノ井清水』という小さな池があります。しかしここから額取山は間にある丘に隠されていて直視できません。これでは山が、池に映る訳がありません。いずれにしても片平町でも日和田町と同じ葛城王伝説が語り継がれていますが、古代、郡山の部谷田(日和田町)から河内(逢瀬町)にかけて大きな一つの沼があったということを考えれば、日和田と片平に同じ伝説があっても、不思議ではないのかも知れません。

 なお、皇族であった葛城王が臣籍降下をして橘諸兄となったのは、天平八年(736)です。なぜ葛城王が、あえて皇籍を離脱したのか、ここにも疑問が残ります。

 これは全くの私見です。歴史の推測として感じて頂ければ幸いです。



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最終更新日  2015.10.01 07:48:40
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