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カテゴリ:街 こおりやま
仮名序〜もう一つの想像
『安積山』の歌は、『難波津』の歌とともに『古今和歌集仮名序』の中で『歌の父母』の1つとされています。 古今和歌集仮名序は、『古今和歌集』に添えられた2篇の序文のうち仮名で書かれているものの方の名称です。通常は単に『仮名序』といわれます。執筆者は紀貫之で、初めて本格的に和歌を論じた歌論として知られ、歌学のさきがけとして位置づけられているもので、この内容は次のようなものです。 (一部省略) 『難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花』なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。(おほさざきの帝の難波津にて皇子ときこえける時東宮をたがひに譲りて位につきたまはで三年になりにければ王仁といふ人のいぶかり思ひて よみてたてまつりける歌なりこの花は梅の花を言ふなるべし) 『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに』安積山の言葉は采女のたはぶれよりよみて。(葛城王を陸奥へつかはしたりけるに国の司事おろそかなりとてまうけなどしたりけれどすさまじかりければ采女なりける女のかはらけとりてよめるなりこれにぞおほきみの心とけにける) あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。]、 この二歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける。 この仮名序に、私には不思議なことが書いてあるように思えます。第1首の難波津は帝の御初めを賛(たた)える歌として詠まれ、作者も王仁とはっきりしているのですが、第2首の安積山は歌ではなく『言葉』とされ、詠み人は陸奥国前采女(つまり氏名不詳)の『戯れ歌』とされているからです。 では何故、このようなことが起こったのでしょうか。考えられるのは、安積山の歌の出来がよかったということだけではなく、それ以上のもの、つまり『安積山』が『安積親王』を象徴的に表していたからではないかと想像しています。そう考えると、『安積山の歌』が『歌の父母』の1つとして推奨されたことの意味が分かるような気がするのです。 万葉集約4,500首の歌のうちに安積山を詠った歌は、」この1首しかありません。これに対して安達太良山の歌が3首もあるのですが、これは実在の山と架空の山との違いなのでしょうか。安積山が架空の山であるということは、安積山が安積親王であるという私の仮定に基づきます。 これに関して奈良の春日大社に問い合わせたところ、奈良ホテルのある丘が浅香山で、その近くには『山ノ井』があるそうです。このことは、歌に『山ノ井』を織り込むことで奈良の浅香山を連想させ、安積親王の印象を薄めることで藤原氏に対しての目眩(めくら)ましにしようとしたとも考えられます。 沢潟久孝氏もその著『万葉集注釈巻十六(85頁)』の中で、『確証がないからこそ、安積山の歌が京師の歌人によって作られた歌であると、筆者はそう考えたい』と述べておられます。 これら推測のまとめとして、もし万葉集の編纂中に橘諸兄と大伴家持の間で何らかの話し合いがもたれ、万葉集の中に安積親王の歌が1首もないのを残念がって橘諸兄が安積に行幸したことにして詠み、作者も『陸奥国前釆女』として左注を書いたという可能性が無いこともないと考えられます。そうであるとすれば、このような左注を書ける人は橘諸兄本人か大伴家持以外にはないと思われるのですが・・・。 ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.11.01 09:35:39
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