仇討ち
仇討ちは、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う中世紀からの慣行でしたが、武士階級の台頭以来広く見られるようになります。その後、江戸幕府によって法制化されてからその形式が完成しました。仇討ちの範囲は父母や兄弟など尊属の親族が殺害された場合に限られ、また仇討ちをした相手に対して復讐をする重仇討ちは禁止されていました。
史料に残る最古の仇討ちは、安康天皇三年(456)に起きた『眉輪王(まよわのおおきみ)の変』にあったとされます。ただ女性や子供など力量のない人を助力するのを助太刀と言いますが、仇討は決闘です。仇とされる側にも正当防衛権があり、逆に殺害した場合は『返り討ち』と言われました。江戸時代には、曾我兄弟の仇討ち、鍵屋の辻の決闘、忠臣蔵は三大仇討ちとされましたが、曾我兄弟の仇討ちは、郡山と深い関係があったのです。
郡山最初の領主であった伊東祐長の父の工藤祐経は源頼朝の御家人となり、平泉の戦いでは源氏方の将として戦功を上げ、安積を恩賞として受けていました。ところが安元二年(1176)、所領争いで叔父の伊東祐親に恨みを抱いていた工藤祐経は、家来の二人に狩に出た祐親に待ち伏せを掛けさせました。この家来が放った矢が一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰の方に当たり、亡くなってしまったのです。
祐泰の妻の満江御前(万刧とも)は、子の祐成と時致を連れて曾我祐信と再婚しました。そして建久四年(1193)五月、源頼朝が富士の裾野で盛大な巻狩を開催した時、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入って討ち果たしたのです。しかし兄の祐成がその場で討たれ、弟の時致は頼朝の館に押し入ったところを女装した五郎丸によって取り押さえられました。頼朝は助命を考えたのですが、祐経の遺児たちに請われて斬首を申し渡したと言われます。
この討たれた工藤祐経の子の祐長が安積に入った時には、伊東と姓を変えていたようです。伊東は伊豆の温泉の地名です。支配地の地名を姓にして所有関係を明示する制度に由来したもの、と思われます.大槻や片平方面に伊東さんが多いのは、この関係からかも知れません。
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