郡山の古代史を紡いだ人々
神護景雲三年(769)、安積郡の丈部直継足(はせつかべのあたいつぐたり)が、阿倍安積臣(あべあさかのおみ)の姓を賜った。
その2年前、伊治城(いじじょう)(宮城県築館町)が蝦夷を治める政策の拠点として造営され、ここに他の地域から人々を移住させたことに蝦夷側が反発、対立が深まっていった。
宝亀三年(772)、安積郡の丈部継守(はせつかべのつぐもり)ら十三人が阿倍安積臣の氏姓を賜っている。しかも郡山市史を読み進めると、時代を経るに従って、多くの人に官位や姓を与えられていることが分かる。その中に郡山に関連するものとして安積臣(あさかのおみ)、安積連(あさかのむらじ)などがある。
臣は、ヤマト王権で使われていた姓(かばね)の一つで、姓の中では連と並んで高位に位置していた。これら姓を得た人たちは34名以上にも及び、意外に多い。市史は、彼らが征夷軍に対して大きな便宜供与をしたことを示唆している。
宝亀十一年(780)、伊治公呰麻呂(これはるのあざまろ)が反乱を起こし、多賀城を焼き打ちにして退去した。負け続けの征夷軍を、征夷大将軍の大伴弟麻呂が田村麻呂とともに戦って、大きな戦果をあげた。
その後に、安積郡の丸子部古佐美(まるこべこさみ)、大田部山前(おおたべやまざき)、富田郡の丸子部佐美、小田郡の丸子部稻麻呂らに大伴安積連が与えられた。 承和十年(843)、安積軍団は1,000人の増員をしている。この年の狛造子押麻呂(こまつくりのおしまろ)一族の贈姓は、これに関連したものであったのであろうか。
貞観十二年(870)、安積郡の矢田部今継、丈部清吉ら17人が、阿倍陸奥臣という姓を賜わった。これは前年に起きた貞観大地震の救援に関したものであろうか、いかにも人数が多い。貞観大地震は、平成二十三年三月十一日に発生した東日本大地震に匹敵する大きなものであった。
これらの贈位は、この地方が阿武隈川の水運を利用した対蝦夷戦の兵站基地などとして利用されたからであろうか。
この間の天応元年(781)、鹿島大神宮(西田町丹伊田)は、安積郡大伴安積連丸子部古佐美が、常陸国鹿島神宮より勧請したと伝えている。この地は、上代安積郡に属し、丸子部の人たちが新田を興したため丹伊田と称したという
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