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カテゴリ:街 こおりやま
葦屋の駅家(えきか)
康保四年(967)より施行された延喜式の諸国駅伝馬条には、原則として現在の約16キロメートルごとに、五畿七道、402ヶ所の宿駅の名称が記されています。その中に「葦屋」という駅家があります。その南には磐瀬駅家、そして北には安達駅家がありました。それらは現在の地名から言っても、磐瀬駅家は須賀川周辺、また安達駅家はその北に湯日駅家(二本松市油井?)があるので本宮周辺と思われます。このことから、葦屋があったという場所は、いまの郡山ではないかと想像されるのです。 しかし、現在に至っても、葦屋の場所は特定されていません。兵士が駐留したと思われる方八丁、兵庫田、古館などの地名から、それらの付近ではなかったかという説もあります。『大日本地名辞書』では、葦屋を大槻町及び小原田の付近に比定していますが、『福島県史』では片平町から多田野町まで含めています。ところで葦屋が小原田の付近と想像すると、安積町の荒井猫田遺跡にあったビッグパレットが気になります。ここからは、古代の東山道や鎌倉時代の館や町、道路などが発見されているからです。その遺跡には、当時としてはかなり広い6mという道幅の幹線道路もあり、その路沿いには、多くの住居柱の穴の跡が並んでいました。 私が不思議に思うのは、『何もなかった所に、このように大きな規模の集落が忽然と現れるだろうか』ということです。もしかするとこの集落は、古代の葦屋の駅家を核として発達したものではないでしょうか。 そしてもう一つ疑問があります。大日本地名辞書に福島県史の記述を足して考えると、葦屋は相当広い範囲になります。ところが現在の郡山には、葦屋という地名がどこにも残されていないのです。そこで私は、この葦屋こそが、郡山となる以前の地名ではなかったかと想像するのです。 なお大日本地名辞書では、安積郷として日和田町、富久山町、熱海町の一帯を比定しています。安積という地名は、早い時期から使われていたようです。 ちなみに駅伝という競技名は、この駅家が由来だそうです。 ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.02.01 08:57:19
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