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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年11月06日
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カテゴリ:城(中国)
ここまでかなりの部分を歴史の紹介に費やしてきましたが、
もうついでなので(笑)、三原城の最後についてもご紹介しましょう。



明治2年、廃藩置県。
上級武士は多くが広島に移り、その他は教員や官吏となって
身を立てる者が多かった。

三原に残った少数の士族は城内に、また下士は城外に住み、
城跡の空き地を耕して桑を植えて養蚕を営んだり、
堀で魚の養殖などをして生計を立てていたという。


城地は廃藩置県とともに一旦は陸軍省の管轄となったが、
この時期に建物・樹木などが競売に付されたらしい。


明治9年には三原に海軍鎮守府が置かれる話が持ち上がり、海軍様がお買い上げ。
ところが、明治16年に海軍鎮守府が呉に置かれることが最終決定を見たので、
用なしになった三原城地は国有財産に戻される。


行き場のない旧士族たちは、それまで長らく三原城を職場としてきたように、
廃藩置県後も三原城地を生活の糧にしようとしていたので、
県知事や内務大臣に払い下げの嘆願を出して頑張って運動した。

結局、運動の甲斐なく鉄道や専売公社の用地となり、
一部は競売にかけられて民間人へ払い下げられた。

運動が成功しなかった理由として、旧士族側の資金不足といわれているが、
その他にも理由があったらしい。

政府は、旧士族の生活支援のために「授産所」という組織を立ち上げていたが、
三原城の払い下げに関しては、広島の旧藩主の授産所総監に取り次がせていて、
こことの連携がうまくいかなかったというのがそれ。

もしこれが首尾よく運んでいたならば、一時期三原城本丸付近は
大規模な畑と化していたのだろう(笑)。


ただ、不首尾に終わったとはいえ、
養蚕のために植えた桑畑や野菜の畑は健在だった。
また城内には松も多く繁っていたので、三原駅付近にはその当時、
キツネやタヌキが出たという泣き笑い

城地が個人の所有になると、旧士族たちは諦めてやむなく三原を離れていったそうな。



維新直後には城内にはまだ沢山の建物があったというが、
競売に付されたり、取り壊されたりして段々と姿を消していった。

このため、32あったといわれる櫓も、残念ながら1つも現存していない。
他の建物物の遺構としては、かろうじて山門がいくつか移築されて
現存している。



明治13年、本丸御殿の表広間(金の間)・遠士の間・玄関の間・大広間・
唐厩舎を使用して三原小学校がオープン。
御殿内で最も格の高い金の間は、教員室に使われたショック

この頃に撮影された記念写真が残ってるんだけど、
子供たちが並ぶ後ろに本丸御殿が写ってる。
おそらく本丸御殿表向に続く区画の東面を背景にして撮った写真だと思うけど、
この写真を見てると、何とも言えない複雑な気分になってくる。

世が世なら、ここはパンピーは決して立ち入れない場所だった。
だって、太閤殿下が(たぶん)いた場所なんだから。

しかし、この写真がなかったら、
本丸御殿の写真は存在しなかったかもしれないしな・・・


ところでこの古写真にはメモが付いてるんだけど、これがまた興味をそそられる。

 【明治十三年九月寫子 柞原城中】

ほっほっ、「柞原」の文字は、ずっと近代まで使われてたのか!
ま、昔って今ほど漢字の使い分けが厳密じゃなかったしね。
泣かせてくれる当て字なんかいっぱいあるし。
いや、記録って大事だよなあ。


また、本丸御殿の金一ノ間の杉戸には、
狩野安信作といわれる猛虎の絵が描かれていた。
この杉戸絵はどうなったのかはわからないけど、幸いにして写真が残っている。

・・・もう、こうなってくると何が良くて何が悪いとか言えなくなってくるよね。
時代の流れもあるんだしさ。



明治22年、元奉行所付近に新しい三原小学校の校舎ができたので、
それまで校舎として使われていた本丸御殿は取り壊され、
校舎新築の費用の一部に充てるため、売却されたという。
あ~、音符ドナドナド~ナ、ド~ナぁぁぁぁ・・・・




「備後國三原城繪圖」には城内に多く木が描かれているが、
昭和に入っても松の大木は結構残っていたという。
その最後の木が伐られたのは、昭和56年。
三原駅の再開発に伴う伐採だった。

最後の1本は「方衛(なみえ)の松」と名付けられていて、
健在だった頃の写真も残っている。

方衛の松は伐られた後に、「旭陽会」の会長に払い下げられた。
旭陽会というのは、旧三原家臣のメンバーで作られた会だそうな。

旭陽会会長の勝原敬之氏は、方衛の松でもって記念品数百点を造り、希望者に配布。
記念品には、会長のお言葉を記した添え書きが付いていた。

 
 【三原城の松。三原駅前に松の大木があった。
  これは旧三原城郭内で最後まで残った唯一本の松である。

  昭和56年2月27日伐採されたが地上高17米30糎(17m30cm)、
  根元直径78糎(78cm)あった。年輪により樹齢190年余と判明、
  鈴木方衛没後190年で巷間云い伝えられた方衛がこの松に登ったという話は
  事実無根である。惜しまれつゝ消えていったこの松で記念品を製作
  往時を偲ぶ縁としたい。】
  (漢数字は戦国ジジイが変換、カッコ内もワシが追加)



鈴木方衛さんは、実は旅日記の方で一度、名前だけ顔を出してます。
「三原編(23)」をご参照ください)


 【江戸時代、三原には過ぎたるものが三つあると他藩から羨ましがられました。
  それは三万石にはふさわしからぬ大きな城、葵の紋所大段幕、
  そしてすぎたる智者鈴木方衛という家来がいたことでした。(中略)

  鈴木方衛は江戸幕府より日光東照宮の修復が各藩に命ぜられたとき、
  誰にも出来なかった難工事を10日間で仕上げ、将軍を感嘆させたという智者で、
  この(大善寺)境内へ特別に葬られています。】
  (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より。カッコ内は戦国ジジイが追加) 


一体どんな難工事だったのか気になるところだけど、
手持ちの資料では詳しいことはわからない。

どうやら方衛さんが登ったという伝承から方衛の松と呼ばれたみたいだけど、
没後190年も経ってからそんな伝承が生まれるなんて、
郷土の誇りだったってことかな。




他の近世城郭の最後については詳しくは知らないけど、
廃藩置県まで残った城の土地・建物や旧士族の身の処し方は、
たぶんどこも似たような感じなんでしょうね。

三原城跡の土地利用については、なまじ天守台付近の遺構が残ってるだけに、
「三原市の神経を疑う」とか、城好きの中にはかなり厳しい意見を吐く人もいる。

が、時代が大きく変わる時の世の中の混乱や大変さを私達は知らないし、
今さら過去を責めても元に戻る訳じゃない。

廃城になった城のその後を辿るのは切ない作業ではあるけれど、
だからこそ、こうした時代の流れを乗り越えてなお現存している各城の遺構を、
大切に伝えていかなければいけないんだな~とあらためて思った。

それと同時に、目には見えない歴史もね。
城は、人が造ったもの。
城の歴史は、人の歴史でもある。


名城と言われる割には、遺構が少ないためか
三原城の人気はイマイチな気がする。

けど、ここまで色々書いてきたように、三原城はその築城の時点から
中国地方の壮大な歴史を抱えてきた。

旅日記とあわせ、このシリーズで三原および三原城の本当の良さを
少しでも感じて頂けたなら、とても嬉しく思います。


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最終更新日  2012年11月06日 21時03分40秒
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