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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年11月18日
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カテゴリ:上野と寛永寺
さて、ここまで由緒ある品々をご紹介してきましたが、
根本中堂の境内には変わったものが色々とあります。
今度はそれらをご紹介しましょう。


      上野・寛永寺・根本中堂54


中堂の向かって右側の脇にあるのが、こちら↓。


      上野・寛永寺・根本中堂55・茶筅塚


「茶筅塚」。
こちらの由緒はさっぱりわかりませぬ。


そのすぐ近くにあるのがこちら↓。


      上野・寛永寺・根本中堂58・了翁禅師塔碑



 【東京都指定旧跡 了翁禅師塔碑

  了翁禅師(りょうおうぜんじ:1630-1707)は、江戸時代前期の黄檗宗の
  僧です。俗姓は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から仏門に入り、後に
  陰元禅師に師事します。諸国を廻るうち、霊薬の処方を夢に見て「錦袋円
  (きんたいえん)」と命名し、不忍池に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で
  難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行いました。

  こうした功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。
  宝永4年、78歳で没し、万福寺塔頭天真院に葬られました。

  本碑は了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑で、生前に作られたものです。元々建てられた
  場所や、現在の場所に移築された時期などは不明です。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


なんで不明なのかその理由こそ不明だけど(笑)、
中におわすのがこの方↓。
こちらが了翁禅師さんなんだろうな。


      上野・寛永寺・根本中堂57・了翁禅師塔碑


え~っと、解説には「塔碑」とあるのに、
どう見たって碑じゃないよな・・・

と不思議に思って周りを見回すと、解説板をはさんで 
確かにデカい碑があった↓。
アハハ、こっちかあ~!!


       上野・寛永寺・根本中堂59・了翁禅師塔碑



本文は漢文。
あれ、ちょっとこの碑の下って・・・


      上野・寛永寺・根本中堂61・了翁禅師塔碑



      上野・寛永寺・根本中堂62・了翁禅師塔碑



      上野・寛永寺・根本中堂63・了翁禅師塔碑



カメだあ~、カメだカメ~~~!!

顔がヘンだけど、甲羅には亀甲文があるし、
確かにカメ~~!!猫


あっ、カメ好きなんですよ、私。

昔、うちの庭に小さいけど池があってね~。
コイと金魚が沢山泳いでたんだけど、
池があるからという単純な理由で、
近所のおばさんが拾ったカメをうちに持ち込んできたのだ。

ちょっとコイ達と一緒にする訳にもいかないので、
部屋の中に大きなたらいを置いてそこで飼ってたんだけど、
たらいから出ようともそもそ這い上がっては

ガコン!!

と倒れることをしょっ中繰り返してました。

ある時、留守の間に逃げ出しちゃってさ・・・

「母さん、僕のあのカメ、
一体どこにいったんでしょうねえ・・・」
 (←古い)



いや、カメはともかく。

坊様が夢のお導きで開発した薬を俗人の甥に売らせるってところと、
一体どんな薬だったんだってちょっと気になったので、
軽い気持ちで了翁さんと錦袋円について調べてみたらば・・・
なんか、とんでもないお人だった。

ウィキペディアには結構詳しく経歴が書かれているので、
詳しく知りたい方はそちらをご覧いただくとして、
わたくし流にかいつまんで説明するならば、
了翁さんを貫く執念みたいなものが2つある。



出羽の貧農の家に生まれた了翁さんは、あまり幸せな少年時代を過ごしたとは言えず、
仏門に入ったのも母や養父母が相次いで亡くなるという不幸に見舞われたからだった。

11歳で出家して13歳の時に訪れた平泉・中尊寺で
経典が多く失われていたことを嘆き、藤原清衡奉納の宋版大蔵経などを探し回り
寺に納めたという。

どうやらこの出来事が了翁少年にとってはかなり衝撃的なことだったらしく、
以後の人生においては経典や書籍の収集に情熱を燃やし、
宗派を越えてあちこちの寺へ大蔵経などを寄進している。
これがひとつめの柱。


もうひとつの柱、それがすさまじいほどの荒行。

行は色々とやってたみたいだけど、
何と言っても目を引くのが「羅切」(らせつ)。

「羅」は「魔羅」、または「摩羅」のことで、
「マラ」は「人の心を迷わし修行のさまたげとなるもの」・・・
転じて男性性器を指す陰語。

「戦国鍋」風に言うならば、ホトトギスを切っちゃった・・・
え?戦国鍋見てない?
つまり、カミソリで自分の性器を切り落としてしまったんだそうなんですよ、
了翁さんは。

これは、後々まで相当傷みを引きずったらしい。
あまりに苦しんだので、有馬温泉へ療養に行ったという(笑)。
たぶん、その行程の中だと思うけど、摂津では左手の小指を砕いて
それに火をともす「燃指行」なる荒行を行ったそうな。
この時、32歳。

さらにその翌年には、左手の指を砕いて油紙を巻いて火をともし、
右手には線香を持って般若心経21巻を読誦するというとんでもない荒行、
「指灯」を行い、左手は焼き切れてしまったという。


まあったく、修行とはいえ、何てことするんですかね~。

しかしまあ、私に言わせれば了翁さんは仏門には向かない体質だったんだろうな。
これはあくまでシロートの素朴な印象で、
教義うんぬんからのアプローチじゃないので反論は受け付けませんが(笑)、
健康な肉体から自然とわき出る本能の強い人だったんだろう。

今風に言えば、タンパク質を最小限にしか摂らない
ベジタリアンの草食系男子に「肉断ちしろ」って命令したところで、
苦にもならないでしょうからね。
苦労しないんじゃ、行にはならないべ。

親鸞のように拡大解釈して、妻帯オッケーで新たな道を切り開いた人もいるけど、
了翁さんはあえて過酷な道を選んだ。

ああ、もちろん親鸞を非難してる訳じゃないですよ。
出家したみんなが真面目に女色を断ってたら、
今頃「日本人」は絶滅してたか、絶滅危惧種だったかもしれないし。

しかし、了翁さんはまさに「身体に叩き込む」方式で、
自らに苦行を課し、本能の欲求をそれ以上に強靭な精神力で乗り越えた。


・・・乗り越えたと言っても、まだ医療の発達してないこの時代、
左手も下半身も相当苦しんだらしい。


35歳で江戸に滞在していた時、また古傷が痛み出した。
そこで観世音菩薩様に祈ったところ、霊夢を見て錦袋円のレシピを教わったんだそうな。

が、ウィキペディアの「羅切」のページには、

 【その後、2年ほど傷口が治癒せず苦しんだが、自分の治療用に自ら調合した薬を、
  「錦袋円」と名づけて売り出したところ、江戸名物になったと言われている。】

とある。
この流れの方が現実的だし、何にせよ傷の痛みに苦しんでた時に現れた薬だから、
こちらの説の方が現実に近いんじゃないのかね。

でも、

「ホトトギスを切って苦しんだけど、
この薬でばっちり良くなりました~」


ってのも体が悪いし泣き笑い

「霊夢で授かりました~」

ってちょっと脚色したところで、江戸時代にAC(公共広告機構)がある訳でなし、
効能さえあれば詐欺とも非難できんだろう。
あっ、別に茶化してるんじゃないですよ。
錦袋円は現実に存在したんだし、リアルに想像してるだけ。


で、錦袋円がどんな薬だったか気になるところだけど、
開発の目的からしても、主に鎮痛でしょうね。
ウィキペディアには「飲用すると心身爽快になったといわれる」ともあるので、
イメージとしてはモルヒネとかアヘン・・・
もっと言うなら、覚せい剤のような成分も若干入ってたのかもな~
なんて想像した。

weblio辞書だと、「毒消しと気付けの薬」とある。
やっぱ覚せい剤系・・・(笑)


とにかく、切ったり焼いたりしたままろくな治療も施さなかった傷の痛みが
消えるほどの効果があった錦袋円、
独り占めせず広く庶民へも分け与えようと思い立った。

商売をすることについては、了翁自身にはためらいもあったようだが、
錦袋円は噂が噂を呼び、バカ売れしたそうな。

この資金を元手に、京や伊勢に施薬院を建て、錦袋円で多くの病人を救ったり、
孤児の養育にもあたった。

そして、上の解説にもあるように、寛永寺には勧学院を建て、
併設した建物には沢山の蔵書を置き、山内のみならず一般にも公開した。
これは日本初の一般図書館といわれているそうな。
それも、貧しい閲覧者や遠方からの訪問者には
宿とメシを提供するという親切ぶり。


図書館だけでなく、了翁さんは私達の生活にも馴染み深いものと関係があります。

 【勧学寮で寮生に与えられた食事は質素なものであったが、おかずとしては、
  了翁が考案したといわれる漬物が出された。大根、なす、きゅうりなど野菜の
  切れ端の残り物をよく干して漬物にしたもので、輪王寺宮がこれを美味とし
  「福神漬」と命名、巷間に広まったとされる。】
  (ウィキペディアより)


まあ、福神漬の由来については別の説もあるようだけどね。


了翁さんの一生は情熱的に、精力的に、アグレッシブに
とにかくすごいものです。

そんな彼の功績を称えるため、存命中の貞享元年(1684)には、
寛永寺境内に等身大の銅像が建立されたそうな。
まさか、上の写真の像がそうなのかな?
何も解説がなかったからよくわからないけど、
もしかしたらそうなのカモ・・・


了翁さんと寛永寺の縁は、勧学院の建立だけじゃなく、
講師を務めたり、ちょいちょい滞在などもしていたらしい。
享年は77歳。

平成19年には、命日の5月22日に寛永寺で300年法会が
盛大に執りおこなわれたという。

まあ、これだけの人だからね。
私はこれまで了翁禅師のことは全然知らなかったけど、
仕事の休憩中にネットで了翁さんの事蹟を読みながら、心の中で

「ほえ~ほえー

と驚嘆のため息をもらしてました。
(声に出したらおかしな人になるからガマンした)

了翁さんは一般にはあまり知られてないんじゃないかと思いますが、
この機会にぜひ皆様もパワフル了翁について知識を深めてみてはいかがでしょうか。



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最終更新日  2014年08月09日 23時57分31秒


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