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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年11月20日
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カテゴリ:上野と寛永寺
慈海僧正さんの墓の手前にも、大きな碑↓。
「上野戦争碑記」とある。


      上野・寛永寺・根本中堂70・上野戦争碑記



さらにその手前にはこちら↓。


      上野・寛永寺・根本中堂72・虫塚



 【虫塚(むしづか) (都指定旧跡)

  虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎の遺志により、写生に使った
  虫類の霊をなぐさめるため、文政4年(1821)に建てられたものである。
  増山雪斎は、宝暦4年(1754)の生まれ。本名を正賢といい、雪斎は
  その号であるが、玉園・蕉亭・石顛通人・巣丘隠人など多くの別号がある。

  江戸の文人大田南畝や大坂の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客と交流を持ち、
  その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋
  (しんなんぴん)に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。
  中でも虫類写生図譜『虫豸帖』(ちゅうちじょう)は、その精緻さと本草学に
  のっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政2年、66歳で没した。

  虫塚は、当初、増山家の菩提寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に
  寛永寺に合併されたため、現在の場所に移転した。勧善院は、4代将軍徳川家綱の
  生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。

  碑は自然石で、正面は、葛西困是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と
  菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わった
  ことが知られる。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


さて、雪斎さんのことは知らないので(笑)、
ここでも寛永寺に関することだけ補足したいと思いますが、
前回の慈海僧正の墓の解説もそうだったけど、
寛永寺の規模は往時と今とではケタ違いなので、
普通に解説を読むとちょっと混乱を招くんじゃないかと思う箇所がある。


明治維新の際、実は寛永寺は一旦終わってます。

上野戦争で建物系が壊滅的な被害を受けたことは前に書きましたが、
それに先だって、僧侶はもちろんのこと、寛永寺お抱えの見回り役人や
鐘撞き係の下っぱまで、関係者すべてが山内処払いの処分を受け、
寺域から退去していたんだそうな。

その詳しい時期はいつなのかちょっとわからないんだけど、
あるいはケイキさんが水戸へ向かって出立したのと同時期かもしれないな。

そして焼け野原となった境内地は没収、輪王寺宮は還俗させられ、
寛永寺は事実上の廃止状態に追い込まれた。

その後、明治8年になってようやく復興が始まるが、
かつての栄華は望むべくもなかった。

やがては子院も復活するけれど、現在の寛永寺というのは、
根本中堂のあるところとそれに隣接する大慈院を含む建物、
それと経営する霊園のことを指す。


先人の訪問記で、現在の寛永寺のことを「まるで押し込められるかのように
上野公園の裏側にひっそりとしている」みたいに表現しておられる方がいたけど、
確かにそれは言えると思う。

歴史ファンでなくとも、寛永寺の名を知ってる人は多いと思うけど、
あまりに立地条件が悪いので、根本中堂・・・というか、
「現在の寛永寺」を訪れる人は少ない。

上野公園内にあるいくつかの寛永寺の管轄にある寺社は、
結構沢山の人が訪れるのに。


まあ、復活できただけでもラッキーだったのかもしれないけど、
ともかくすべての子院の復活までには至らず、
再編成する中で寛永寺本体に組み込まれた子院もあるので、
上の解説の下線部分のような表現になってしまうのだろう。

で、もともと虫塚のあった勧善院は「お腹様別当」という
格式の高い子院だったのに、本体に吸収されちゃった訳だね。

私は霊廟には行ってないからわからないけど、
かつて霊廟の存在した絵図を見ると、現在の霊園の敷地をほぼいっぱい使って
霊廟があったようだから、現在では間違いなく霊廟の規模は縮小されてるはずだし、
もう別当を必要としない・・・というか、維持できなくなったのだろう。

だって、もう徳川家からのお手当はもらえないんだし。
別当の中でも現存している子院はいくつかあるにはあるけどね。



さて、ここまでの色々な石碑は、参道の向かって右側に集中していて、
左側には木が植わっているだけ。
・・・いや、ここにもこれがありました泣き笑い↓。


     上野・寛永寺・根本中堂113



ハア、暑い中立ちっぱなしで疲れたな。
少し休んでこの先のことを考えたいけど、
境内だしベンチなんてものはない。

かといって、上野公園内に入っちゃうと人も多いし、
そもそも公園に入る手前にもいくつかの見るべきスポットがある。

どうしようかな~って境内を見まわしたら、
奥の隅っちょになんかワケのわからないものがあったので↓、
ここに腰掛けてしばし休憩・・・


     上野・寛永寺・根本中堂114



なんなんだ、これ・・・
これもかつての境内を飾っていたものなのかな?
由緒あるお品だったら申し訳ないけど、今の私には休憩を取る方が大事(笑)。

んで、これ↓に腰掛けた訳ですが、


     上野・寛永寺・根本中堂115



これ、絶対奉納された灯籠の台座だよな~。
(でも座る)


前日から凍らせておいたアクエリアスは、
この暑さの中でもまだ冷たさをキープしてた。 
でも、それももう残り少ない・・・

昼メシをまだ食べてないので、ここで手持ちの菓子パンをかじりながら
この後のことを考える。

まだ13時すぎで時間は早いけど、これからもっと暑くなるし
もうヘロヘロだし、予定をすべてこなせないのは確実。
真夏に無理するとロクなことがないしな~・・・

で、結局この日はここで打ち切りにすることにしました。


ぼんやりパンを食べながら座ってたら、
少し離れた場所ですずめちゃんが元気に砂遊びをしてた。
カメラを構えたら飛んでいってしまったので、
残骸だけ撮りました(真ん中の穴がすずめちゃんの掘ったとこ)↓。


     上野・寛永寺・根本中堂116


このクソ暑いのに、元気じゃのお・・・
それとも、暑いから地面を掘って涼んでたのか?


根本中堂には1時間くらいいたけど、
拝観者は10人も来なかった。
あまりに立地条件が悪いよな・・・

かつて栄華を極めた寺だと思うと、あまりのわびしさにちょっと切なくなるけど、
人がほとんどいないので浸るには最適。



帰ると決めたら、もう一刻も早く帰って
家でゆっくりしたい。

食べ終わってから立ち上がって周りを見回すと、
この辺の塀の瓦にはやっぱり葵紋がついてたけど、
塀のラインはなぜか3本だった↓。


      上野・寛永寺・根本中堂117



外へ出たとこ↓。
どうやらこちらが正式な入口のようですね(笑)。


      上野・寛永寺・根本中堂118


ああ、まさか現在の寛永寺だけで終わっちゃうなんてな~!!
ラブホ街をさまよったのも、響いたよな~。
仕方ない、涼しい日を見計らってなるべく早めに再訪するとしよう。
つか、涼しい日なんて当分来なさそうなんだけど・・・雫


※「上野第二編(1)」へ続きます。



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最終更新日  2014年08月09日 23時55分35秒


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