カテゴリ:上野と寛永寺
え~、思った以上にお正月特番が長引いて申し訳ありませんでした。
もちっとコンパクトに収めるつもりだったんだけどな ![]() でもほとんどが寛永寺関連だから、あまり違和感なかったでしょ?(←ゴーイン) それではこれより上野第二編を再開いたします。 夏の両大師の続きです。 ただ、ちょっと所用があって月内は更新頻度が遅れますのでご了承ください。 本堂の手前にも天海マーク↓。 これはだいぶ新しいものみたいだな。 ![]() そのすぐ先↓。 どうやら本堂をくぐって行かれるようになってるらしい。 (ただし、拝観コースではありません) 昔はどういう造りだったんだろう・・・ ![]() その先に、両大師の由来を書いたちょっと変わった形の石碑がある↓。 ![]() 【両大師由来 當堂には寛永寺開山慈眼大師天海大僧正と、大僧正が尊崇された第18代天台座主 慈恵大師良源大僧正を祀る。天海大僧正は本坊内に慈恵堂を設けておられたが、 やがて大僧正の入寂後に建立された開山堂に慈恵大師を合祀したため「両大師」と 呼ばれる様になった。 ここに慈眼大師350回の御遠忌を迎え両大師堂を始めとする寺観を一新すると共に 新たに輪王殿を建立し、以て報恩の一端に擬するものである。 平成5年10月2日】 ふ~む・・・ 平成元年の火事は残念なことだったけど( 「上野第二編(27)」参照)、 ちょうど350年忌でもあり、本堂の再建とあわせて 全体をリニューアルさせたってことか。 じゃあ、昭和までの境内とは少し違ってる訳だね。 こちらが庫裏かな↓。 近代的な建物。 ![]() 唐破風につく兎毛通は猪目。 屋根には金の菊が載る↓。 ![]() ![]() ここで両大師の敷地としてはどん詰まりになるので、向きを変える。 ![]() 【御車返しの櫻 この櫻は一本の木に一重と八重の花が同時に咲きます。 後水尾天皇が京の寺で花見を終えた帰路、花の余りの美しさに牛車を返して再び ご覧になったことからこの名前があります。】 (現地解説板より) ん~? 帝が愛でた桜? そんな由緒のある桜なら、輪王寺宮がもらってきたのかな・・・ いや待てよ、後水尾天皇の在職中の出来事なら、天海が譲り受けたってことか? と疑問に思って検索したら、長野朝日放送のサイトの「新聞に載らない内緒話」という ページにもそっと詳しいことが書いてあるのを見つけた。 それによると、後水尾天皇の子・守澄法親王が初代輪王寺宮になった際に もらったものなんだそうな。 東国へ向かう守澄法親王が、せめて京の香りのするパパの愛した桜をねだったものか、 あるいは遠くへ行く息子のはなむけとしてパパが持たせたものか・・・ なにせ、皇子が江戸で徳川家のための寺に入った初めての例だからね、 朝廷と徳川家の間でもさまざまな軋轢があったし、 関係者がそれぞれ複雑な想いを抱えながらこの桜を江戸へ運んだのかもしれないな~ と思うと、この木一本だけでも短編小説が書けそうです。 後水尾天皇は常照皇寺に花見に行った際、この桜を目にしたんだそうな。 鶯谷のウグイスといい、上野周辺には輪王寺宮の縁で京から色々なものが 入ってきてたんだな。 この桜は、江戸の春夏秋冬の名所を集めたガイドブック・江戸名所花暦では 28品の桜の一つとして挙げられているとある。 また、池波正太郎もこの桜を愛したそうで、 上野周辺の桜が散った後に咲く遅咲きのこの桜を見に、 熱燗持参で夕方の境内に一人陣取って御満悦だったそうな。 境内で酒を飲んでいいんですか・・・(笑)。 御車返しの櫻の下にはこんな岩がある↓。 ![]() どう見てもただのデカい岩にしか見えないんだけど、 「寝釈迦石」(ねしゃかいし)と立札がある。 どうも納得行かなくて、角度を変えて見てみたけど ![]() 普段は妄想力のたくましいわたくしですが、 どうもこーゆー系のグッズに合点がいくことは少ない。 厳島でも牛の形の石と言われてるものがあったけど、 やっぱり納得いかなくてぐるぐる角度を変えながら首をひねってたっけ。 その先には、かつての井戸らしきものがある↓。 ![]() 上野第一編から、時々建物の鬼板や蟇股に不自然な「ぽっかり」があるのを 見かけましたが、ここにもそれがあった↓。 ![]() 変だよな~。 しかもここの「ぽっかり」には一部ハゲてる箇所があるので、 自然に取れるものとも思えないし、意図的に外したと見て 間違いないだろうと思うんだけど。 まあ、寛永寺の歴史を考えれば外したのは「葵」じゃないかと思うけど、 寛永寺内の建造物で葵が付いてる箇所なんていくつもあるしな・・・ それに、このままじゃあんまりだから新しく何かはめればいいのに。 変だよな~。 ![]() ↑井戸はふさがれていたけど、上には滑車が付いてる。 てことは、この建物はもとから井戸とセットだったみたいだな。 井戸の方には何か彫られている↓。 ![]() 一部、漢字が難しかったり崩し字だったり磨耗してたりして 全文は読めないんだけど、「謹 東叡開山廟前」と最初にあるので、 初めから両大師に奉納されたものらしい。 寺域に大きな変化のない寺であれば、古い寺でもあまり気にしないで済むものが、 寛永寺の場合は闕所前の山内の変遷も大きかったし、 明治以降に大幅に規模が縮小されて各種グッズが元の場所から 随分移動しているようなので、結構大変・・・つか、めんどくさい(笑)。 ただ、正真正銘の「めんどくさい」で終わるものであれば、 いちいち銘なんか見ないけどね。 めんどくさいと同時に、とんでもない所にとんでもないグッズが移動しているものを 見つけると、自動的に妄想スイッチが入るのである意味私向きかもしれない ![]() 逆の言い方をすると、普通の観光客が目を向けないようなものに 寛永寺の歴史を感じることができるので、こういう楽しみ方のできる寺は そうそうないのかもしれません。 っと、それでこの井戸の石の銘の日付は正保2年(1645)10月2日。 あれ、10月2日って天海の命日じゃん・・・ 天海は寛永20年(1643)に亡くなっているから、 その2年後ってことは、つまり天海の3回忌に奉納されたってことか。 天海の墓は日光にあるんだけど、正保元年には上野に慈眼堂ができてるから、 日光でももちろん3回忌の法要が行われたでしょうけど、 寛永寺でもこの両大師でそこそこ盛大な法要が行われたんだろうな。 現在ではふさがれて、ほとんど参拝者の目を引くことのない井戸ですが、 寛永寺の歴史の重みを物語る貴重な遺物です。 昔日の寛永寺の面影を求めて上野を歩かれる際には、 ぜひこうした地味なものにも目を向けてみてくださいね。 めんどくさいっちゃめんどくさいんだけど、 見つけ出す楽しみがここにはあります。 ![]() にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年07月30日 20時49分10秒
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