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カテゴリ:正岡子規
「日本人」明治29年1月5日号に発表された『新年二十九度』という子規の文章があります。 文字通り、子規が迎えた29度の新年を振り返るというものです。 新年も大方は夢の中に過ぎぬ。廃藩置県といい、太陽暦採用といい、世人が胸騒がしき正月を迎えたらん頃はまだ知らぬ仏なりき。 小さい頃の新年の出来事は、はっきり覚えていません。記憶がはっきりし出すのは6、7歳からです。 六、七歳の頃より後は、節気と正月をただ面白きものとのみ覚えたり。これ余が世の中に対して利害の念を起こしたる初めなり。節季は餅搗煤払より門松を樹(たて)て輪飾に𣜿葉(ゆずりは)、田作、橙、炭などを縛り作るまでいずれか面白からぬはなく、婆殿の側にて余念なくこれを身居りたり。 …… まして正月は嬉し。元日は北風の寒さもなかなかにめでたき心地して、短き袴着け尺ばかりの大小をさしたるも我ながらいみじ。三が日も過ぐれば十ばかりの子供つれだちて門々の飾りの橙を取ることこの頃の流行なり。余も人の後につきて行けば、中には小さき鎌もて橙を伐り落としなどする者あり。たくみに偸むこともいと羨ましく覚えぬ。かくて盗み取りたる橙は、橙投げとて道中に立ちて両方より投げつ止めつするほどに五つ六つの橙皆つぶれてまた偸みにと出で立つ。またある時は家々の飾りをもらい集めて二、三十ばかりを抱え、野外れへ持ち出るでてこれを焼く。この時おのおの切餅二、三個を袂にし行き、これをどんどの中に入れおけば真黒になりて焼けたるを灰の中より掘り出でて喰う。凧揚げて遊ぶ者多かれど余はあまりこれを好まざりき。全て戸外の遊戯はつたなき方なりければ、内に籠り居て独り歌がるたを拾い、こよなき楽みとせり。この時代は何事もただ興あるごとく覚えし時代なりき。 子規の子供時代には、軒飾りの橙を盗むことが遊びと横行していたことがわかります。 橙は赤し鏡の餅白し(明治26) 年忘橙剥いて酒酌まん(明治29) 正月や橙投げる屋敷町(明治29) おかざりの橙落す童かな(明治29) 赤門の橙小き飾り哉(明治31) 十の歳は初めて髷のなき新年に逢えり。この時まで余は髷を結び脇指(わきざし)を横たえたり。 明治十七年は初めて東都に居候の正月を迎えぬ。半年を東京の塵にもぶれたれば多少の見識と度胸と出来たりと見え「臥聞車馬朝金闕。間見旭光射竹櫳」と詠みたるは金モールに眼のくるる時代も過ぎたるならん。横着なる居候にはありける。東京の正月も貴顕参朝のほかには竹飾りの少し風の変わりたると「おめでとう」と言う言葉のみ珍しく覚えぬ。余幼かりし時阿嬢(はは)教えたまいけるは「おめでとうとは女子の語なり。男はただめでとうとばかりいうべし」と余も男なればその教えに従い来れるを東京にては男女ともおめでとうという。さては東京は物事めめしき処よと感じぬ。 明治十八年は猿楽町の片隅に下宿屋の雑煮餅を喰いぬ。 明治十八年の暮は井林、清水両学友とともに同じ下宿屋にありしが初めて浮世の節季を知りぬ。下宿量の滞りは七、八円に及びて誰も財布の底をはたきぬ。井林は二十九日頃より何処へ行きけん帰らず。余は三十一日の朝ある友の下宿に行きて除夜をそこに明かし後に残る清水は病気のまねして蒲団を被りしまま飯を食わずにその日を送りければ、さすがの鬼婆も最速に来ざりしとぞ。元旦も間がわるく二日の日に三人初めて下宿屋に顔を合わせて笑いながら去年を語れり。余は二十歳になることのまことに口おしかりき。この十九年は余が上京以来三度目の新年なれば自ら「至今三歳阿蒙詬。仍旧一寒范叔貧」と嘲りぬ。実に余は前年の夏の試験に落第し、この頃は着物を典して寄席に耽る時なりしなり。 …… 明治二十三年は郷里にありて阿嬢の膝下に数の子をとうべぬ。 …… やがて明治二十九年とはなりぬ。立つといいけん古の人の言葉も覚束なけれども。 今年はと思ふことなきにしもあらず 子規の若い頃は、なかなかにめちゃくちゃでした。
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最終更新日
2018.12.31 08:55:46
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