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カテゴリ:夏目漱石
漱石は『行人』にアイスクリームを登場させています。『行人』は、漱石の神経衰弱が進み、深い孤独感に囚われていた頃で、まるで魂の救済を求めるかのように、主人公の大学教授・長野一郎と妻・お直の愛の平行線を描くととともに、一郎の孤高の姿を浮き立たせます。その中に登場するのが、主人公の弟・長野二郎の友人である三沢で、彼もまた漱石の分身のように胃を悪くして入院しています。そこにはアイスクリームがよく登場します。 三沢は看護婦に命じて氷菓子(アイスクリーム)を取らせた。自分がその一杯に手を着けているうちに、彼は残る一杯を食うといい出した。自分は薬と定食以外にそんなものを口にするのは好くなかろうと思ってとめにかかった。すると三沢は怒った。 「君は一杯の氷菓子を消化するのに、どのくらい強壮な胃が必要だと思うのか」と真面目まじめな顔をして議論を仕かけた。自分は実のところ何にも知らないのである。看護婦は、よかろうけれども念のためだからといって、わざわざ医局へ聞きに行った。そうして少量なら差支さしつかえないという許可を得て来た。 自分は便所に行くとき三沢に知れないように看護婦を呼んで、あの人の病気は全体何というんだと聞いて見た。看護婦はおおかた胃が悪いんだろうと答えた。それより以上のことを尋ねると、今朝看護婦会から派出されたばかりで、何もまだ分らないんだといって平気でいた。仕方なしに下へ降りて医員に尋ねたら、その男もまだ三沢の名を知らなかった。けれども患者の病名だの処方だのを書いた紙箋を繰って、胃が少し糜爛(ただれ)たんだということだけ教えてくれた。(行人 13) 下女が誂えた水菓子を鉢に盛って、梯子段を上って来たので、「あの女」の話はこれで切れてしまった。自分は寝転んだまま、水菓子を食った。その間彼はただ自分の口の辺を見るばかりで、何事も云わなかった。しまいにさも病人らしい調子で、「おれも食いたいな」と一言云った。先刻から浮かない様子を見ていた自分は、「構うものか、食うが好い。食え食え」と勧めた。三沢は幸いにして自分が氷菓子(アイスクリーム)を食わせまいとしたあの日の出来事を忘れていた。彼はただ苦笑いをして横を向いた。(行人 31) 明治43(1910)年8月6日から漱石は修善寺温泉の菊屋旅館で転地療養をすることにしました。しかし盆を過ぎた8月17日には「熊の肝のごときもの」を吐血、19日には180g、24日には500gも血を吐いて、漱石は人事不省に陥ったのでした。 漱石は、夏の修善寺で、しきりにアイスクリームをせがんでいます。妻・鏡子の『漱石の思い出』には、「最初の一日は絶食、それからアイスクリーム二匙、それからだん少しずつ食量を増して、葛湯などもやるようになり、自分でもしきりに何かが欲しくなって、ドロップをもう一つよこせの、アイスクリームをもう一匙よこせだのと駄々をこねます」と書かれています。 小宮豊隆の『修善寺日記』9月8日(木)には「――昨日アイスクリームを作って上げたら、食塩の分料が少し多すぎて、塩からくて氣の毒だった。クリームがあればフィラデルフィアを作るんだが、ないから、クリームぬきのネアポリタンにしたのである。今日は朝から雨が降って、うすら寒い。アイスクリームを召し上がりますかと看護婦に訊かせたら、今日は寒くてたべられやしないと言われる。それにあんな塩っ辛いのはいやだと言われる。今度拵える時はもっと旨いのを拵らえてあげますと言って置く」とあります。 ここに登場する「フィラデルフィア」と「ネアポリタン」はアイスクリームの名前です。「フィラデルフィア」は、クリームチーズを入れたチーズ系のアイスクリーム、「ネアポリタン」は「ナポリタン」のことで、イングランドのチャールズ1世がつくらせた「バニラ、ストロベリー、チョコレートの3つのアイスクリームではないでしょうか。 容態が良くなってきた9月9日、アイスクリームの機械が名古屋の鈴木禎次から送られてきました。鈴木禎次は、鏡子の妹・時子と結婚した建築家で、親族嫌いの漱石が例外的に好んでいた人物です。この日の漱石の日記には、「アイスクリームは冷たくていやになる」「アイスクリームの器械は鈴木送る」と記されています。その機械は、桶に氷を満たして塩をかけ、ハンドルを回して牛乳と空気を攪拌させるものです。漱石の次男・夏目伸六の『父・漱石とその周辺』には、「子供の頃よく、真夏の暑い日に、花壇のある裏庭に、この機械を据えつけて、母の末弟と矢来の伯父の長男が、二人がかりで、懸命に、その製造に汗を流していたのを覚えている。鉄の箍(たが)のはまった分厚な桶の真中に、丁度茶筒のような円筒形のブリキ罐が入っていて、その中へ、材料の牛乳と卵と香料を入れた上、周りに、ぶっかき氷を一杯つめて、塩をふりかけ、さて、それから、外側についた把手を、ガリガリ、ガリガリ廻すのだが、これが並大抵の苦労ではなく、如何に食い意地だけは張っていても、到底、子供の手にはおえなかったから、姉弟全員、ずらりと、涼しい北側の縁端に腰かけたまま、只できあがるのを、一心不乱に待ちわびていた。時には、そんなところへ、ひょっこりと、書斎から顔を出した父までが、いきなり、諸肌ぬぎになって、庭へ飛ぴおり、掛け声をかけながら、頼りと、把手を廻していたことも、何度かある。しかも、こうしてできあがったアイスクリームの味は、誠に感に堪えぬものがあったが、恐らくこれは、唯の子供心からくる珍しさとばかりとはいい切れない。事実、その後、漸く町で売り出された大量生産の水増しアイスクリームにくらべれば、遥かに、材料も上等だし、味も良かったのは当然である」と記しています。 ※漱石作品(こころ・虞美人草)とアイスクリームはこちら ※療養所でのアイスクリームはこちら ※氷屋とミルクセーキはこちら 柴田宵曲著『明治の話題』には「アイスクリーム」という文章があります。途中、子規とアイスクリームのことが書かれているのですが、これはまた別の日にご紹介します。この中には漱石の門人・寺田寅彦のアイスクリーム体験が書かれています。 アイスクリーム 外国へ行った人とか、横浜居住者などは早くアイスクリームを口にする機会があったらしいが、一般の人が食べるようになったのは、少し後であろう。明治十年九月十一日、先任文部大輔が上野の教育博物館に大学の外人教授達を招待した時、卓上に大きなピラミッド形のアイスクリームのあったことが、モース博士の「日本その日その日」に見えている。十二年にグラント将軍が来朝したのは七月であったから、招待会の席上には当然アイスリームが出た。新富座に於ける東京府有志の歓迎会の晩は、守田勘弥が特に横浜からアイスクリームを取得せた。これらはすべて外人に関連したものであるが、勘弥は前年六月の新富座開場式に已にアイスクリームを来賓にすすめている。西洋かぶれの勘弥としてはアイスクリームを饗するのが得意の芸当であったかも知れぬ。 高利貸をアイスと称するのは氷菓子から来た酒落である。鴎外は「金色夜叉上中篇合評」の中で「想うに、これから幾千万年の後にICE-CREAMで氷菓子という酒落なども分らなくなってから、開明史家は此小説を研究して、これをたよって今の人物、今の思想を推知するだらう」などと大分遠い将来の事を心配しているが、アイスクリームを氷菓子と称するのは、高利貸をアイスと呼ぶほど永く行われなかったのではあるまいか。緑雨の「おぼえ帳」に「やりくりにて兎も角も送れる人の妻の、アイスクリームというは、ただ高利貸の名とのみおぽえ居りぬ。知合のもとに行きたる折、夏は馳走もなし、アイスクリームなりともと言はれたるにハタと憤りて、あなた、噸弄なすってはいけません」と書いた滑稽なども明治時代の産物で、何故高利貸がアイスだと反問される時代になっては、この話の両白味は半減されざるを得ない。 (中略) 寺田博士は「銀座アルプス」という随筆の中でアイスクリームを回顧し、「ヴァニラの香味が何とも知れず、見たこともない世界の果の異国への憧僚をそそるのであった。それを、リキュールの杯位な小さな硝子器に頭を円く盛上げたのが、中学生にとっては中々高価であって、そう無闇には食われなかった」と述べている。明治のアイスクリームは慥かに書生の食物でなかったといってよかろう。「銀座アルプス」に出て来るのは二十八年頃の話であるが、それから十年余り後の「欧米記遊 二万三千哩」(戸川秋骨)に、大西洋航行の船中でアイスクリームを食べることがあり、「味はまた格別で、かつて風月堂でやった一杯十五銭のドロドロしたのよりもーアイスクリームという以上ドロドロした方が真実なのかも知れぬがー帝国ホテルで御馳走に与った固いのよりも遥かにうまく味われた」と日本のそれを引合いに出している。当時の十五銭は氷水十杯の値段である。従って子供の口には容易に入らない。子供用のアイスクリームは街頭でよく売っていた。実質は後の小豆アイスと同じであるが、それをアイスクリームと総称していたのである。 アイスクリームに関する話題はいろいろある。中野其明という画家が、はじめてアイスクリームを食べさせられて、「ああ痛え菓子だ」といった話の如きは広く知られてはおらぬであろうが、江戸っ子らしい驚異の窺われる点で、頗る珍とすべきであろう。
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最終更新日
2018.08.02 00:10:10
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